学び聞き取り コリント第一 九

2020-11-05 | 00:20

ですから私たちは今、律法の呪いから解放されています
今でも、厳格に律法を守る事によって義とされようとする人たちもいます
そのような人たちの生活はがんじがらめです
しかし恵みによって救われた私たちは自由を享受する事が出来ます
そのような私たちが歩む基準が何かを12節は教えてくれます
私たちには大きな自由が与えられていますがすべてが益になるのではありません
あるいは私たちは自由を享受する中で自分の欲望に支配されてはなりません
私たちにとって何が益となるのか、これは損得の問題ではなく
私たちが目指すべき目標にとって有益であるかどうかです
では私たちの目標は何かというと
やがてイエス様とお会いした時によくやった忠実なしもべだと
声を掛けて頂く事ではないでしょうか
イエス様からこのような声を掛けて頂くために私たちには
私たちにとって何が必要であり何を切り捨てるべきでしょう
これを基準としてこの地上を歩むべきだと言う事です
コリント第一 9-24
この世の人でもオリンピックで金メダルを取るために日々練習し
あるいは使うシューズなどを研究し目標を目ざして努力をしています
私たちは朽ちないもの、主の御国のために一体どれだけ
自分自身を制する必要があるのかとパウロは問いかけているのです




学び聞き取り コリント第一 九

2020-11-04 | 00:20

私たちの犯す罪には色々な程度というのがあります
この社会では例えば傷害の程度の程度によって罰金は刑だったり
殺人なら死刑もあるでしょう、この地上にあっても罪の重さは色々です
私たちが主に犯す罪にも軽いもの、重いものがある、と思います
ヨハネ第一 5-16
罪には2種類がある、死に至らない罪と死に至る罪です
私たちが死に至らない罪を犯している人を見たなら
その人のために祈りなさい、とりなしなさいと言われています
しかし死に至る罪を犯している人にはそのようには言いません
だまされてはいけませんと書かれています
偶像礼拝をする者、不品行な者、姦淫をする者、神殿男娼
このような人たちは神の国に入る事は出来ない、この事を
あなたたちは知らなければならないのだと言っています
6-11
ここには素晴らしい福音のメッセージがあると思います
あなたがたの中のある人は以前はこのような者だったのに
悔い改めて神の前に義と認められるようになったのだと思い起させています
以前がどんなに汚れた生活であったとしても
主イエス様の流された血潮は私たちのどんな罪をも清める事が出来るのです
コリント第二 5-7
にある通りです、主イエス・キリストの御名と私たちにある神の御霊によって
あなたがたは洗われ清められ聖なる者とされ義と認められたのです
6-11はすべて受け身で書かれてあります
私たちは自分を自分で洗い清める事は出来まるのです
そしてその時に主せん
私たちのありのままの状態で主イエス様の前に出た時に
主イエス様ご自身の血潮によって私たちを洗い清めて下さるのです
そしてその時主は私たちに清い御霊をくださいました
その御霊によって私たちは日々成長させて頂く事が出来るのです
そして神の前に義とされる、神の前に何の咎めもない罪もない
無罪の者として立つ事が出来るのです
これは私たちの努力の結果ではなく一方的な主の恵みによる事です
6-12
パウロはここで繰り返しすべての事は赦されていると述べています
私たちが義とされるのは律法の行いによるのではありません
私たちがどんな大きな罪を犯したとしても正直にそれを告白して
主の前に出るなら主は私たちを洗い清めて義と認めて下さる
そういう意味ですべての事は私たちには許されていると言う事です
私はどんな事をしても主の前に悔い改めるなら主はそれを許すと言って下さいます

学び聞き取り コリント第一 九

2020-11-03 | 00:20

6-4~7
私たちキリスト者は現実の問題として色々な事件に巻き込まれます
不正な取り扱いを受ける事もあるのです
その時に同じ土台に立つキリスト者が仲裁に当たって問題を
解決する事が大事だとパウロは言っています、しかし更に問題の解決が難しくて出来ない場合
私たちは不正すらも余んで受けなければならない者です
これはこの地上の原則、常識からみると愚か事な事です
自分の権利が侵害されているのにそれを黙ってう受け入れる、
これは愚かな事に見えますが主イエス様の救いに与った者には
このような状況のの元、全く別の意味を持つのです事
このような取り扱いを通して私たちは主イエス様の十字架の
意味を更に学ぶべきであるという事を私たちは知るようになったのです
よく知られている山上の説教の中に
マタイ伝 5-38~48
自分が不正な取り扱いを受けあるいは欺かれる、これは不愉快な経験ですが
その中で十字架の学科を学びイエス様をよりよく知る事は
私たちにとっては非常に大切な事です
ペテロ第一 2-22~24
正しく裁かれる方に任せる委ねる、これはキリスト者だけに許された特権でしょう
例え不正な取り扱いを受けたとしても欺かれたとしても
神が正しく裁いて下さる、この確信が私たちには大きな財産ではないでしょうか
6-8
ここでは不正を受けた人から不正を行った人に対してパウロは語ります
これまでは不正を受けた人に対して語ってきましたが
8節では不正を行った人の事を取り上げています
互いに訴え合う事は悪い事ではありますが不正を行う事も悪です
そのような事をしている者は神の国を相続する事は出来ないと言っています
6-9,10
だまされてはいけない、とパウロが言います
ある人は大変に簡単に信仰告白をしたりしますが、周りの人たちは
彼は信仰告白をしているのだから天国へ行ける、救われていると言います
パウロはここで騙されてはいけないと厳しく言っています
列挙されている罪の程度の大きい場合、神の国は相続出来ないのです
ギリシャの神殿では偶像礼拝、姦淫、神殿娼婦、男娼が公然を行われ
それをし続けるながら罪の意識を持たないとしたら
そういう者は神の国を相続する事は出来ないのです
そして、そんなことも分からないのかとパウロは言っています




学び聞き取り コリント第一 九

2020-11-02 | 00:00

今回からはコリント第一6章、神の栄光のために
6章で取り上げるのは、ある兄弟が他の兄弟を裁判で訴えようとしている事です
自分の合法的な権利を主張する事によって主の証を
台無しにしてしまう可能性があります、主の御名を傷つけてしまう
それよりもむしろあなたがたは不正を甘んじて受けて
その事を通して主イエス様の十字架の贖いについて学んで欲しいと言っています
6-1
教会内の問題を世俗の裁判所に訴えるのはおかしいのではないかとパウロが言います
正しくない人たちという言い方をしていますが
これは信者が正しくて、世俗の裁判官が劣っているという意味ではなく
世俗の裁判官は自分の罪についてまだ神の赦しを頂いていないという意味です
6-2
6章の特徴でもありますが、パウロは沢山の質問疑問の形で
コリントの兄弟姉妹に問いかけています
「知らないですか」と言う言い方も6章には6回ありますね
これは純粋に質問をしているのではなく、知っていて当たり前という意味です
あなたは知らなければならないと言う意味です
1節ーこのような人がいるのでしょうか
2節ーごく小さな問題も裁く力がないのですが
これも質問の形を取っていまうが、あなたがたは聖徒が世界を裁くようになるのを
知らないのですかと言っていますが
それを知らなければなりませんという意味ですね
黙示録 20章には
来たるべき1000年王国の時代には私たちはキリストと共に
その国を治めるようになるのだと、驚く事が書かれています
将来、そのような重大な責任をになう事になる私たちは
この地上において教会内の問題を正しく裁く事を学ばなければ
いけないと言う事です
教会で起こった色々な事件、ここではごく小さな事件と言っていますが
将来私たちの取り扱う問題に比べればこの教会の中の
色々な争い事というのは小さな事だとパウロは言っています
6-3
ここでも知らないのですかと疑問形ですが
この事をあなたがたは知らなければいけないと言う意味です
み使いをも裁く事になる、そうであるならこの世の事は
言うまでもないではありませんかとパウロは訴えます
私たちがみ使いを裁くようになる、これは理解を超えていますね
ペテロ第二 2-4
裁きの時までとありますが裁きの時には私たちは主と共に
み使いを裁く事になるという驚く事が書かれています
すなわち私たちは霊的世界においては裁きをする事となるのです
そうであれば今日、目に見える世界の出来事をあなたたちは
正しく裁かなければいけないのだとパウロは言っています

学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-27 | 00:20

私たちは自分の犯した罪、蒔いた種の刈り取りをしなければなりません
その事を通して罪の恐ろしさを知る事になります
そしてその罪を毛嫌いし、その罪から離れたいと思う事が
主の導きであるという事だと思います
もし、私たちが間違った愛で自分自身の罪や周りのにいる人達の罪を
受け入れてしまったらどうでしょうか
それは一見愛のある行為と見えるかも知れませんが
結果的に罪を犯している人を主から離れさせ祝福を失わせると
同時に教会の証も台無しにしてしまうでしょう
イエス様ご自身が恥を受けてしまうという事にもなります
ですから、厳しいようですが不品行の罪を犯した兄弟をパウロは
あなたがたの交わりから除きなさいと言っているのです
結果的に彼の肉は滅ぼされるが彼の霊は主の日に救われると言っています
肉が滅ぼされるとははっきりとは書いていませんが
私たちがいたずらに罪に留まるなら、あくまでも罪を愛して
その内に留まろうとするなら遅かれ早かれ
私たちは自分の心と体の均衡を失う事になるのではないでしょうか
その結果ある種の病気にかかる事もあるでしょう
罪の放縦に身を任せるなら私たちはここに書かれているように
私達自身の肉を滅ぼされてしまう可能性があるのです
それでも彼の霊が救われるのならやむを得ないというのが
パウロの判断だったのではないでしょうか
アビシャロムを正しく裁く事が出来なかったダビデはエルサレムと
追放されてしまいました  サムエル第二 15-30
彼は泣きながらオリーブ山の坂を上ったと書かれてありますが
彼は何故泣いていたのでしょうか、エルサレムを負われたからでしょうか
そうではなくて子供たちの中に自分自身の罪を見たのではないでしょうか
アムノンとタマルはダビデとバテシェバのようであるし
その後アビシャムが兄をダビデがウリヤを殺したように殺した事
自分の愛する子供たちが自分と同じ罪を犯している事を見ると
自分の罪を思い出してしまう
それが苦しくてダビデはオリーブ山の坂を泣きながら上ったのでしょう
主の懲らしめは本当に厳しいものだと思います
しかし、このようなダビデの罪や失敗にも関わらず
聖書はダビデを神の人と記しています
懲らしめを受けたダビデは神によって清められ神の御心にかなう者として
聖書に書かれたのではないでしょうか