学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-28 | 00:20

私たちに求められている事もそうなのです
私たちも罪を犯し多くの失敗をしますけれど主の懲らしめを
正しく受けるなら主の御心にかなう者として成長していく事が出来ます
それを妨げるのは、私たちの奢り、高ぶり、高慢の罪です
5-6
あなたがたの中に酷い罪があるのにも関わらず
あなたがたは得意になってしまっています、あなたがたには自分を誇る資格が
あるのですか、このように問いかけています
パン種とはパンを膨らませるイースト菌の事です
パンの生地にこのイースト菌を混ぜると生地全体が膨らみます
そこで聖書はこのパン種を悪として現わす比喩として用いています
教会の中で誰かが罪を犯す、悪い事をする
するとその影響が教会全体に広まってしまうのです
不品行の罪を犯している兄弟をその中に放置しておくと
コリント全体の教会の力が失われるでしょう
あるいは揉め事が多くなり、分裂が起こるなど様々な問題が
噴出してきてしまうのではないかと思います
5-7
パン種、過ぎ越しの子羊という言葉は出エジプト記を念頭に書かれています
イスラエルがエジプトを出る前夜、主はそれぞれの家庭でこひ子羊を屠るように命じ
そしてその血を門柱、鴨井に付けるように命じられられました
その夜主なる神はエジプトに対する裁きとして
動物であれ人間であれすべて最初の雄の子供を殺してしまいますが
門柱、鴨居に血が塗られた家はその裁きを通り越し
裁きは行われなかったと聖書に書かれてあります
ですから、過ぎ越しという事は神の裁きが通り越して行ったという事です
その時から過ぎ越しの祭りが始まりました
イスラエルでは今日も毎年過ぎ越しの祭りを守っていますね
今から2000年前イエス様はこの過ぎ越しの祭りの日に
十字架にかけられ、尊い血を流しご自身の血を捧げて下さいました
イエス様を信じる者は父なる神のw裁きをまぬかれるのは
私たちの行いが正しいからではなく
私たちの神はイエス様の流された血潮を見て
私たちの罪を見過ごして下さるのです




学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-27 | 00:20

私たちは自分の犯した罪、蒔いた種の刈り取りをしなければなりません
その事を通して罪の恐ろしさを知る事になります
そしてその罪を毛嫌いし、その罪から離れたいと思う事が
主の導きであるという事だと思います
もし、私たちが間違った愛で自分自身の罪や周りのにいる人達の罪を
受け入れてしまったらどうでしょうか
それは一見愛のある行為と見えるかも知れませんが
結果的に罪を犯している人を主から離れさせ祝福を失わせると
同時に教会の証も台無しにしてしまうでしょう
イエス様ご自身が恥を受けてしまうという事にもなります
ですから、厳しいようですが不品行の罪を犯した兄弟をパウロは
あなたがたの交わりから除きなさいと言っているのです
結果的に彼の肉は滅ぼされるが彼の霊は主の日に救われると言っています
肉が滅ぼされるとははっきりとは書いていませんが
私たちがいたずらに罪に留まるなら、あくまでも罪を愛して
その内に留まろうとするなら遅かれ早かれ
私たちは自分の心と体の均衡を失う事になるのではないでしょうか
その結果ある種の病気にかかる事もあるでしょう
罪の放縦に身を任せるなら私たちはここに書かれているように
私達自身の肉を滅ぼされてしまう可能性があるのです
それでも彼の霊が救われるのならやむを得ないというのが
パウロの判断だったのではないでしょうか
アビシャロムを正しく裁く事が出来なかったダビデはエルサレムと
追放されてしまいました  サムエル第二 15-30
彼は泣きながらオリーブ山の坂を上ったと書かれてありますが
彼は何故泣いていたのでしょうか、エルサレムを負われたからでしょうか
そうではなくて子供たちの中に自分自身の罪を見たのではないでしょうか
アムノンとタマルはダビデとバテシェバのようであるし
その後アビシャムが兄をダビデがウリヤを殺したように殺した事
自分の愛する子供たちが自分と同じ罪を犯している事を見ると
自分の罪を思い出してしまう
それが苦しくてダビデはオリーブ山の坂を泣きながら上ったのでしょう
主の懲らしめは本当に厳しいものだと思います
しかし、このようなダビデの罪や失敗にも関わらず
聖書はダビデを神の人と記しています
懲らしめを受けたダビデは神によって清められ神の御心にかなう者として
聖書に書かれたのではないでしょうか




学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-25 | 00:20

ダビデは子供たちの悲惨な状況を正しく治める事が出来ませんでした
何故なら、彼らの中に自分の罪をみたからではないでしょうか
そういう意味でダビデは苦い刈り取りをしなければなりませんでした
教会の中に不品行な罪を犯している人がいるという事に関して
正しく裁くというのは難しい事です
まして、その人が教会にとって重要な立場にある人だとしたら
毎月の献金が多額であり教会がその人の献金を当てにしているとしたら
そういう人の犯している罪を裁けるでしょうか
案外、うやむやにしてもみ消してしまう事も起こり得ます
それが人間の弱さなのではないでしょうか
5-3
心はそこにありますと書いてありますが、原文では霊はそこにあるです
コリントの人は魂、肉によって振舞っていたのとは対照的に
パウロは霊の人として振舞っていたという事です
肉体はそこにいなくても霊はあなたがたと共にいると言っています
5-4,5
サタンに引き渡したという表現はとても厳しいですが
教会、又は集会の交わりから追放したという事です
私たち兄弟姉妹は一つの群れを作り交わりを保つ事は
ある種の守りの中に置かれている事を意味します
主ご自身がその群れ全体を守って下さる、私たちは交わりの中で
守られているのだと言えるのではないでしょうか
しかし、そこから引き離されてしまうと私たちはこの世の支配者である
サタンから直接攻撃にさらされるという事です
これは決して救いを失うという事ではありません
私たちがイエス様を信じ救いを頂いたならイエス様は私たちを
引き離す事はなさいません
誰もイエス様の手から私たちを奪う事あないと聖書が言っています
ヨハネ伝 10-28,29
しかし、私たちが罪を犯した時にはイエス様、父なる神様から
厳しい懲らしめを受ける必要があると聖書の御言葉です
それは私たちを滅ぼすためではなく本当の意味で私たちが悔い改めて
父なる神の愛に立ち返るためなのです


学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-24 | 00:20

私たちの教会は人を裁かない、どんな人でも受け入れる愛のある教会だと
自分たちの寛容性を誇っていた可能性もあります
そしてパウロのように厳しい事を言う人達に向かって
何故あなたたちは愛のない態度を取るのか、人を裁くのかと
イエス様だって裁いてはいけないと言っているではないかと
反論していたかも知れません
そしてこの事は現代の教会でも起こり得る問題です
教会内の罪に対して私たちはどのような態度を取るべきなのか
これはとても難しい問題でしょう
この事に関して旧約聖書から考えてみたいと思います
サムエル第二 12-10~13
ダビデと家族にも似たような罪を犯した事が書かれています
神の人ダビデとよく言われますが、このダビデと家族にも
大きな罪が入り込んでしまいました
それに対してダビデは必ずしもはっきりとした態度を取る事が出来ませんでした
私たちはこの事を見ると聖書の御言葉を実践するのは
決して簡単な事ではないのだと改めて思わされます
ダビデにアビシャロムという息子がいましたが
彼の犯した罪をダビデはきちんと裁く事が出来ませんでした
結果的に神ご自身がアビシャロムをの事を裁かざるを得なかったのです
ダビデ自身は罪を指摘された時に素直に悔い改めそれゆえにダビデの罪は赦されましたが、
同時にダビデは自分の蒔いた種を刈り取らなければなりませんでした
ダビデの妻たちを息子アビシャロムが寝取るという恐ろしい事となりました
サムエル記第二 16-21,22      18-9~15
このような事があってもダビデは息子を守ろうとします
アビシャロムは長い髪を誇っていましたがそれが命取りとなりました
ダビデが早い段階でアビシャロムを正しく裁いていたなら
イスラエルの国も分裂する事はなかったのではないでしょうか
ダビデが息子を溺愛するあまり正しい判断が出来ませんでした
最初にダビデはアビシャロムを裁く機会もあったのです
それはアビシャロムが兄アムロムを殺した出来事の時に
裁く事が出来たはずなのに中途半端な形で受け入れてしまいました
結果として彼は増長し父ダビデに反抗して
自分がイスラエルを治めようという野望を持ってしまったのです



学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-23 | 00:20

コリント第一 5-1~13  8回目 テーマは主の愛と裁き
主の裁きは厳しいのですがその根底には本当の愛があるという事を学びます
今までの1章から4章ではコリントが抱える問題を見てきました
それは分裂の問題でした、分裂の理由は兄弟姉妹の中にある自分を誇る思い
あるいは自分の知性に大変に自信があってその奢り高ぶりからの
対立が生まれたという事でした
それは私たち人間が抱える魂の問題だと言ってよいでしょう
私たちの体は魂、霊、肉体からなっていると聖書にありますが
魂の問題がコリントの教会に分裂をもたらしていたという事です
今回5章では不品行の問題が扱われています
これははっきりと罪であるのか、そうではないのか
これは私たちの体、肉体の問題です、聖書の中では限界事例というのか
これははっきりと罪であるのかそうではないのかと
争われるような事があります、例えば、離婚に関してなどです
ある人はこれは許されないと考えるし、あるいはあるケーズでは
これは仕方がないと考える人もいます
しかし5章1節で扱う不品行の問題は議論の余地がありません
誰が見てもこれは主の前に罪である事は疑いを挟む余地がありません
この不品行があなたがたの間にあると記されています
と言うのはこの事実が広く知られているという事です
この事によってコリントの兄弟姉妹ひいてはイエス様の証が
台無しになってしまうと言う状況になっていた事が分かります
しかもそれは異邦人の中にもない位の不品行だと言われています
当時のローマの法律では母親との結婚は禁じられていました
現在の日本でもそうです
異邦人の中にもないような不品行がコリントの中にあった
従ってコリントの兄弟姉妹が抱えていた問題というのは
一般社会が抱えていた問題よりも深刻であった訳です
そのような状態にあって、どういう態度を取るべきかをパウロは述べています
5-2
コリントの兄弟はそのような兄弟がいるのを知りながら黙認していたのです
もしかしたら積極的に自分たちの寛容さだと誇っていたのかも知れません