1-2

コリントにある教会へとありますが、当時はまだ教会堂はなく

神父や牧師がいたのでもありません

これは良く言われる「エクレシア」と呼ばれる集まりです

神によって召し出された人たちの集まりの事です

この群れの事を神の教会と呼んでいます

この世的な道徳的に堕落した人たちから召し出された人たち

異教徒や偶像礼拝から救い出された人たち、彼らに向かってパウロは

この手紙を書きました。パウロはここういう言葉を使いながら

コリントにいる信者たちに与えられた栄光と特権を思い起こそうとしています

パウロはこの人たちを聖徒と呼んでいます

将来に聖徒とされるとは言わず、現在すでに聖なる人とされた人たちと呼びます

今日、神は私たちの事をも聖徒、聖なる者と呼んで下さいます

私たちにもその栄光と特権とが与えられているのです

その事をパウロはコリントの信者にも私たちにも

思い起させようとしておられます

私たちも道徳的に堕落したこの世から異教徒から偶像礼拝者から

召し出された、救い出された者として呼びかけられています

1-3

この言葉はパウロの他の手紙の冒頭でも書かれていますが

これは決まりきった挨拶ではなく、今日、テーマとして取り上げたいものです

私たちがキリスト者として歩むうえでの力の源泉を現しているものです

すなわち、私たちの力の源泉は主イエス様が下さる恵みと平安であるという事です

私たちは恵みという言葉を聞くと、私たちの救い、私たちの改心における

主イエス様から与えられているものという意識が大きいと思います

ローマ書 8章3-23,24

律法の行いによってではなく、私たちが義と認められるのは神の恵みによる

そういう意味で神の恵みという言葉はよく使われますが

恵みとは実はそれ以上であると知る必要があります

すなわち、改心した信者が罪から解放されるためにも

この神の恵みはどうしても必要なのだという事です

私たちが罪に対して死に、新しい命によって日々生きるために

神の恵みはどうしても必要なのです

私たちが主イエス様の聖さ、純粋さ、愛、喜び、平安、寛容、親切、

善意、誠実、柔和、自制、こういう御霊の実を結ぶためには

どうしても神の恵みが必要です

私たちは御霊の実を自分の努力や決意によっては得る事が出来ません




そして、パウロは二回目の伝道旅行へと出発します。二回目は前回とは

比較にならない程の広範囲に福音を宣べ伝える旅となり

その時に訪れた都市のひとつがコリントであり、一年半に渡って滞在し

福音の種を蒔きました

しかし、コリントから戻った後、コリントの悪い噂を耳にします

コリント第一 1-11

教会の分裂の問題、不品行、偶像礼拝、など様々な問題が起こっていました


私たちにとって罪の赦しは大切な事ですが

日々の信仰生活の中で罪から解放された者として歩むという事も

同じように大切な事です

罪の赦しと罪からの解放は同時に語られなければなりません

もし、罪の赦しだけが語られ、罪からの解放が語られないとしたら

聖書の福音は薄っぺらなものとなってしまうでしょう

罪赦されたキリスト者が、いかに罪から解放された歩みを進めていくのか

この事は救われたキリスト者にとって大きなテーマだと思います

言い換えますと、肉の性質によってではなく

主にあたえられた御霊によって歩むために私たちはどのようにすればよいのか

その事を学ぶ必要があります

そしてパウロが強調したのもこの点にあるのです

このテーマは時代や地域を問わない普遍的なテーマであります

パウロは道徳的に堕落したコリントの信者に対して

憤慨したり批判したりせずに、キリスト者に与えられている栄光と特権について

語り始めた事が分かります

コリント第一 1-1

パウロは人に任命されたのではなく、神の御心によって召命されたと言い

かつてはパウロ(サウロ)は主の復活を証言する者を迫害する側でしたが

ダマスコへの途上、イエス様に出会い彼は完全に変えられました

ですから、自分が誰かに説得されてキリスト者になったのではないと

パウロ自身がよく知っていました

自分は神によって召し出され使徒として任命されたのだと

これがパウロが強い確信であり、その確信は死ぬまで揺らぎませんでした




信仰生活は、私たちがそれまでの歩みを悔い改めて

福音を信じる事から始まります。

日本においては、主イエス様を信じるという事は回りと違う事を

する訳ですから、最初のハードルが高いものです

このハードルを乗り越えるのは貴重な事です

コリント第二 5-17

私たちが主イエス様を信じ、救われたなら、その人には助け主、すなわち

聖霊が与えられます。その主の霊が私たちを新しくして下さる。

これは素晴らしい事実です。これを改心と呼びます。

この改心は私たちの決心によりますが

しかし、この後にキリスト者としてどう歩むのかは毎日の問題であり、

毎日、私たちは色々な事で試みを受けます。

聖書には人を改心に導く御言葉よりも

改心したキリスト者を正しく導く御言葉の方が圧倒的に多いです。

悔い改めて福音を信じれば主は必ず救って下さり神の家族として下さり

私たちを天国へと導いて下さいます。

しかし天国に至る過程は人によって様々ですね

コリント第一 3-10~15

私たちは火をくぐるようにしてやっと救われるのか、あるいは主に

よくやった忠実なしもべだと言って頂けるのでしょうか

勿論イエス様にお会いした時によくやった忠実なしもべだと

言って頂きたいと思うわけです。

そのために私たちは救われた後、主の御心にかなう歩みを重ねたいと思うのです

パウロは第二回の伝道旅行でコリントを訪れます。

主イエス様が復活し昇天された事を目撃した弟子たちは

助け主、聖霊を受けました。

そして、主イエス様の復活をエルサレムで証言するのですが、

当時のユダヤ教の指導者たちから激しい迫害を受ける事になります

その迫害する側にはパウロもいたのです

ステパノの殉教も迫害のピークでしたがその場にはパウロ(サウロ)もいました

その迫害は悲劇的ではあるのですが

主はその事をもお用いになる事が出来ます

その迫害を通して二つの重要な事が起きました。一つはパウロ自身の改心です、

迫害する側のパウロが主に出会い改心します、

二つ目は迫害を逃れるために各地へ散って行った弟子たちが

主の復活の証言者として各地で福音を宣べ伝えるようになりました

そして多くの異邦人が結果的にイエス様を信じるようになったのです

後に、救われたユダヤ人たちはモーセの律法に従って

割礼を受ける事を条件に出してきますが

エルサレムに戻ったパウロは割礼の有る無しは

救われる条件ではないという認識を示し

弟子たちの共通認識を土台とした教会が発展していきます






25-ヨシヤのように心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして

モーセのすべての律法に従って、主に立ち返った王は、

彼の先にはいなかった。彼の後にも彼のような者は、

ひとりも起こらなかった

26-それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こした

あのいらだたしい行いのために、

主はユダに向けて燃やされた激しい怒りを

静めようとはされなかった。


神のなさる事を人間は100%理解する事は出来ません

何度でも悔い改めを受け入れて下さるお方がマナセの行いのせいで

ユダに対する怒りを持ち続けると言われます

神がそう言われる事をただ黙って受け取るだけです

私たち人間は神の前に従順である事を示すだけです





19-あなたが、この場所とその住民について、

これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、

あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、

わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる

━主の御告げです━


ヨシヤが王となり先祖たちのふるまいに神が怒りを持っていると知り

民は神への悔い改めを現しました

神は民の悔い改めをそのまま受け入れて下さいます

自分の行いが神を悲しませると知ったなら

悔い改めが必要で神は私たちの食い改めを受け取って下さいます

何度でもやり直しをさせて下さるのです。





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