荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 1月30日

2020-01-31 | 00:20

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください【マタイ 6:11】

主がどのように、神の御名、神の御国、神の御心を
求め る祈り方を教えてくれるのかを理解できずに苦しみ、
それから慌てて、日々の糧のことのことで思い悩んでしまう 人もいます。

こんなふうに、祈りの中で、崇高なることか ら、
きわめて世俗的なことに踏み切るのは、不適切なこ とに見えます。

しかし、私たちの主のみ言葉においては、 非常によい理由があります。

神の御心に自分をささげる ものは,強い敵意に巻き込まれること、
主の御国の祈りを 捧げるものは、サタンの攻撃に必ず引き込まれ、

それは 自分の存在すら危うくすることを、主ははっきりと知って おられたのです。

パンは人間にとって必要不可欠なものです。
神の御心が この地上で成るために立ち上がろうと思うなら、
その人 は生き続けなければなりません。

ですから、この悪に満 ちた世で神に真実であろうとするなら、
その人が日々の 糧を求めるのは、当たり前のことです。

マタイ伝 5-14,15

2020-01-30 | 00:20


14-あなたがたは、世界の光です。
山の上にある町は隠れることができません。
15-また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。
燭台の上に置きます。
そうすれば、家にいる人々全部を照らします。


イエス・キリストを信じた私たちは、光そのものであるイエスを内に宿す者
知らず知らずのうちに光を放つ者となっています

光とは暖かいものです
旅行者が遠くの町の光に励まされ歩き続けるように目指す所となります
いいえ、私なんか、と思わないで下さい
自分が頑張って輝くのではありません
イエス・キリストがそうして下さるのです、その媒体となる自分である事を
認識していればいいのです
自分を力のない者として卑下したりしないでいましょう

イエスはあなたがたは世界の光ですと言われたなら
はい、あなた様にそうして頂けますようにと胸を張りましょう

コロサイ書 3-16

2020-01-28 | 00:20




16-キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、
知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
詩と賛美を霊の歌とにより、
感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

何と嬉しい勧めでしょうか
交わりは教え、戒めであって無駄話の時間ではないですね
教えも戒めも謙遜な心の状態でなければ、中々素直にもなれません
イエス様からの訓練の時でもあります

賛美は何の心配もいりません
詩編を互いに読み合う事の楽しさは特別です
神を賛美しながらには同時に文句は言えません
賛美をしながら心で誰かを悪く言う事だって難しいはずです

歌いましょう、
心に悪が忍び寄って来たなら、その時こそ大声で主を賛美しましょう

荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 1月26日

2020-01-27 | 00:20

  イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」といわれた。
                                        ヨハネ伝 19-30


  キリスト者の信仰の始まりは「為す」ではなく、「為された」です。
私たちの理性がこれに逆らうのはもちろんです。
動き始めなければ、どうやって目的地にたどり着くことができましょう。
なんで努力もしないで到達できるでしょう。

今までに、何かを得ようと働きかけもしないで、手にしたことがいったいあったでしょうか。
しかしクリスチャンというのは妙なものです。休息から始まるのですから。
最初に私たちがなんでもやろうとしてみれば、何も得られません。
もし私たちが到達しようと求めれば、私たちはすべてを失います。
イエスは「完了した」と言われました。
そしてパウロは次のようなことばでエペソ人への手紙を書き始めます。
「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを
祝福してくださいました」。

ですから私たちは、自分の力で達成するのではなく、まさにこの始まりに、休息するように、
そして神が為してくださったことを喜ぶようにと招待されているのです。

ガラテヤ書 6-2

2020-01-26 | 00:20



2-互いの重荷を負い合い、
そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。


重荷を負い合うとは黙って手を差し伸ばし立ち去る事でもある
恩着せがましかったりなどない

キリストの律法の全うは愛である
見返りを期待したり、感謝を求めたりはしない

いつか、自分も誰かの手を必要とする日が必ず来るのだから
人間は普通に生きているなら
一人の働きで誰かを助ける事が出来るように造られている
そもそもが、そのように造られているものなのだ


隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、
満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。
(申命記 23-24)

ガラテヤ書 5-14

2020-01-25 | 00:20


14-律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
という一語をもって全うされるのです。

覚えきれない程の律法も「愛せよ」の一言がすべてです。
頑張って律法を守ったとしても、底に愛がないなら虚しいと言われます
神様の愛のレベルは到底届かない高さです
でも
無理だからといって放り投げるのが正しい道ではありません。
私たちに出来ない事でも神にはお出来になります
どうせ無理と最初から諦めるのではなく
神に不可能はないと信じるなら道は開けます

そんな愛は持てる筈がない、と開き直るより
私の内なる聖霊は勿論愛のお方なのですから求めようと期待したいです
人間には不可能ですが神には不可能はありません

荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 1月23日

2020-01-24 | 00:20


  マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
どうしても必要なものはただ一つだけです。(ルカ書 10-41,42)
  

  正直なところ、主への働きは人を引きつけるものがあります。

人々があなたの話を聞きに集まるのは、ぞくぞくすることかもしれません。

反対に、もしあなたが家にいることを強要されて、

朝から晩までこの世の仕事に忙殺されたなら、あなたはすぐに、

「人生はなんと無意味なんだ。外に出て主に仕えることはなんと
大きなことだろう。あちこちに出かけられて、

説教さえできればいいのに」と、思い始めるでしょう。

 

 しかしそれは霊的ではありません。

それは生来の好みの言いなりになってしまっているにすぎません。

私たちの神への某かの奉仕が、ただ単に自分自身の趣向の追求に

過ぎないことはありえないことなのでしょうか。

私たちは落ち着きがないので、家でじっとしていることができません。

それで自分の息抜きのために、あちこち走り回って神の仕事をするのです。

私たちは兄弟に仕えるために目一杯何かをするかもしれません。

あるいは罪人を救うために働いているかもしれません。

しかし、どうしても必要なことはただ一つだけです。

私たちはまず何よりも、主にお仕えしているのでしょうか。

荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 1月22日

2020-01-23 | 00:20

ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう。
                                           II 列王記 6.15

 神が奇跡を行なわれるとき、私たちは自らの愚かさ加減を笑うべきです。
私たちが未だに思い煩い、思案し続けるならば、私たちは主の弟子でもなんでもありません。
悲しいことですが、多くの人々は神が自分たちのために
働いていてくださることを決して分かろうとしません。

なぜなら彼らはいつも道をはずれているからです-
-神が助けてくださらなくても、多分友だちが少しは助けてくれる、等と。
もっとも憐れむべきは、絶対的な危機にひんして、
なお脱出のための安易な道を見出だしてしまう人々です。

必要は奇跡の母です。逃げようとするために、別のものを見失います。
大きな困難は、もっぱら私たちが自分自身から離れて
主に信頼する者となるように備えられたものなのです。

前にも後ろにも道がない、
その時神はお出来になります。主にはご計画があります。
ですから不可能を恐れてはなりません。主には何でもないことです。
主の足元にひざまづき、主が行動を起こされるのを待ちなさい。
奇跡は先にあります。

ヨハネ伝 15-1,2

2020-01-22 | 00:20


1-わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
2-わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き
実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。


イエスはご自分を木に例えられ、確かに木に実が付く事はありません
枝が伸びて実を付けます、枝は私たちだと言われています
実とは何でしょう
食べて美味しく、時には鳥が啄み、時には熟して地に落ち種となります
実とは豊かさの象徴です。イエスの豊かさの現れが実です。

実を結ばない枝とは何でしょう
いつまでも貧しくいる事でしょう。イエスの持つ豊かさを受けないものです。
私たちはいつでもイエスの豊かさを享受できる立場にいるのです
思いっきり受けましょう、条件などないのです。ただ受けましょう。


私たちの中に実を結ぶのを妨げる何かがあるなら刈り取って頂きましょう。


荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 1月19日

2020-01-20 | 00:20

こいうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、
      (使徒行伝 26-19)

パウロの障害を通じての神への聖別と従順を可能としたものは
天からの光でした。従順はビジョンから生まれます。
自分を神に捧げる事は神にとって尊いものですが、
盲目的な服従では神に仕える事は出来ません。
私たちが改心した当初のときにある、誰にも指図されることもなく
神へと自分を捧げることと
神のご計画を明確に見ることによって、さらに自分を捧げていくこととの間には
違いがあると思います。
自分が救いに与った事だけを頼りとする者には神はあまり厳しい要求をされません
しかし、神がご自身の心を開かれ神がなされた事を私たちに見せられる時、
又、神が私たちに対して従順を求められ、
私たちがそれに新鮮にお応えするとき、神は私たちがさらに
明け渡し捧げることを強く求めておられるのです。
私たちが新しく得た理解を自分の言葉で請願するとき
神は私たちをその言葉の程度において獲得して下さるのです。
このようにして私たちは絶えず新しい領域へと進み行くのです。






マタイ伝 7-24

2020-01-19 | 00:20


24-だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に
比べることができます。

日本に住んで、岩の上に家を建てる人など見た事がないので
想像は出来ないが
多分、岩とはイエス様の事なので基礎をイエス様に置いた人なのでしょう
ただ言葉でイエスの言われた事を口移しのように伝えるのではなく
口がそう言うなら、あなた、行いなさい、でしょう
そして、そういう人は岩の上に家を建てたかのように
揺るぎないという事でしょうか
口先だけの人は行動の経験がないので、別の考えを示された時には
案外、うろたえたり、たじろいだり してしまうのかも知れません

行動の結果を知っている人は案外強いものです

ヤコブ書 1-17

2020-01-18 | 00:20


17-すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は
上からくるのであって、光を造られた父から下るのです。
父には移り変わりや、移り行く影はありません。


あらゆることで「完全」という言葉を使えるのは神の御業だけ
人間には完全な善もそして完全な悪も成し得ないのです
神には暗い部分がありません 光そのものです。完全です。
何かで価値観が変わったり、見えない部分があったりなどあり得ません
だから、私たちは安心してすべてをお委ね出来るのです
変わらないから、影のないお方だから
すべてをさらけ出して安心出来るのです

マタイ伝 16-24

2020-01-17 | 00:20


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24-それから、イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

この世の人は罪悪感に苛まれると十字架を背負って生きて行くなどと言う
キリスト者は赦された者であるし、これから犯す罪をも赦された者なので
そういう意味の十字架には縁がない

イエス・キリストはこの世に来られた時から見えない十字架を負っておられた
その為にこの世に来られたのだから
キリストを愛する者と変えられた私たちはその後を歩きたいと思う
多分、誰でもそう思うものだろうと思う
イエスはそうしたいなら、まず自分を捨てなさいと言われる
そして目に見えない一人一人の十字架を負いなさいと言われる
それはこの世の人が負うと勘違いしている重いものではない

イエスを愛している私たちはイエスと同じ道を歩きたいのだ
その道は十字架を負って歩く道なのだ
あなたがたはわたしのゆえに世に憎まれますとイエスは言われましたが
イエスに従うと心に決めたなら
十字架の喜びも、十字架の苦難も共に味わう覚悟をした事なのだ

わたしについて来なさい
こんなに嬉しいお言葉があるでしょうか





ガラテヤ書 6-12

2020-01-16 | 00:20




12-あなたがたに割礼を強制する人たちは、
肉において外見をよくしたい人たちです。
彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです。

キリストは律法を成就されたお方ですから、キリストにある者は、
カタチを見せる必要がありません。
キリストに従いますという言葉で十分です
首から十字架を下げたり、牧師と分かるような衣装も必要がありません
もし、何か必要があるとしたら「キリストの香り」を放つ事でしょうか

15-割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。
大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ書 6-15)

荒野の食卓、1月15日

2020-01-15 | 00:20

創世期 22-14

14-そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。

今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。


イサクが生涯でたった一度自分の心に問うた質問は、

「焼き尽くす捧げ物のための子羊はどこにいるのだろう」でした。

その解答は断固としたものでした。

「神が備えて下さる」これがイサクの典型的生き方でした。

すなわち、彼は嗣業を受け継ぐ者として、父から得た物をただ自由に受け又享受したのです。

彼は井戸を掘ることもしませんでした。彼がなすべきは父が掘った

それらの井戸を再度開くことでした。

又、彼は結婚についてもあれこれ主張する事はありませんでした。

ふわさしい女性について相談することもなく、又、彼女を探し出すこともありませんでした。

彼が葬られた墓ですら、すでに父によって買い取られていたのでした。

私たちもまたイサクのように、資産家の家に生まれたのです。

父なる神が私たちに備えて下さるものを私たちは受け取る事が出来るのです。

イサクの父である私たちの神は、

まさしく与えて下さる神ではないのでしょうか?

(ウォッチマン・ニー)




ローマ書 10-17,18

2020-01-14 | 00:20


17-そのように、信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

18-でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」
むろん、そうではありません。
「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

人間の耳はそこで発せられる沢山の音を取り入れるようになっていますが
必要のない音は無意識に流し、必要な音だけを聞き分けて聞いているものです
この素晴らしい仕組みは人間を造られた神様の御業です

その御言葉を遮るようにサタンは策略を巡らせています
心に神様が入らないように騒がしく惑わせます

しかも、旧約の主の御声は「かすかな細い声」です
今、イエス様が来られた終わりの時には

その声は響き渡り地の隅々の人々が聞き取れるのです

そして必要とあらば、神はどんな方法を用いてでも聞かせて下さいます

イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。
もし、この人たちが黙れば、石が叫びます。」 (ルカ書 19-40)

エレミヤ書 17-7,8

2020-01-12 | 00:20


7-主に信頼し、主を頼みとする者に、
祝福があるように。

8-その人は、水のほとりに植わった木のように、
流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、
葉は茂って、日照りの年にも心配はなく、いつまでも実を実らせる。


主とは豊かなお方です。人々に祝福を与えられる唯一のお方です。
神からの祝福とは天と地とをお造りになられたお方が愛を降り注いで下さる事です

必要な時に必要なものを豊かに与えて下さいます
ポケットから手を出して、不要な物を握りしめている手を広げましょう
豊かに与えられる祝福を両手で掴みましょう

ヨハネの手紙第一 5-14,15

2020-01-10 | 00:20

14-何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、
神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

15-私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、
願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

神のみこころにかなう願い事とはどんな事でしょうか
ああして欲しい、こうして欲しい、あれがこうなればいい、これがなくなればいい、
神は私たちの召し使いではありません、と教えて下さった方がいます
私たちが神のしもべであって、神が私たちのしもべではありません

私の願いが神のしもべとして相応しいものなら
私の願いが神の喜びとなるものなら
私の望みではなく、神の望まれる事をどうか、私が祈れる者でありますように。

イザヤ書 55-6,7

2020-01-09 | 00:20

6-主を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、呼び求めよ。

7-悪者はおのれの道を捨て、
不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの主に帰れ。豊かに赦してくださるから。

今なのです、時を逃さないように
今生きているこの時に主を呼び求めるのです
この世に流されて人に流されて世間の評価に流されて
大切な事から目を逸らして
どうでもいいような評判に心を動かし、ふっと虚しさに取りつかれる
それが呼び求める時なのです
主は憐れみ、赦して下さるおかたです。

「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(コリント第二 6-2)

荒野の食卓、1月7日 ローマ書 5-10

2020-01-08 | 00:20

10-もし敵であった私たちが御子の死によって
神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが
彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらの事です。

神がみ言葉の中で啓示された私たち人類のあらゆる必要のために
神が与えたもうた回答はただ一つです。
すなわち、ご自身の御子イエス・キリストです。
神が私たちを取り扱われる方法の本質は、あらゆる事において
私たちを取り除き、キリストに置き換える事です。
神の御子は私たちを赦すために私たちに代わって十字架で死なれました。
御子はまた私たちを自由とし解放するために、私たちに代わって生きて下さいます
よって、二つの身代わりがあることを知ります。
私たちの罪の赦しのための十字架での身代わりと私たちの勝利のための
私たちの内側での身代わりです。
もし私たちが次の事実を常に意識し続けるならば、それは大いなる助けとなり、
また多くの混乱から私たちを救い出します。
すなわち、それは神が私たちの問いかけに応えられる唯一の方法は、
ただ御子を私たちに啓示することなのです。
ウォッチマン・ニー

詩編 119-105

2020-01-07 | 00:20

75526631-成功の概念、夕焼け空背景を道しるべに成功への道



105-あなたのみことばは、私の足のともしび、
私の道の光です。


御言葉のともしび、光、は消える事がありません。
いつでも、聖書は私たちの励みの書です。

聖書に聞き従わず
自分の思いで歩いで頑張ってしまう事もありますが
やはり、自分の思いは何かがあった時には揺らぎます

御言葉に従った時には、神が責任を取って下さいますから
結果が何であれ平安があります。

エレミヤ書 29-12,13

2020-01-05 | 00:20


12-あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、
わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。

13-もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、
わたしを見つけるだろう。

神様は隠れてはおられません。見えないだけです。
罪を入れたアダムは神様の顔から隠れようとして逃げまどい
「あなたはどこにいるのか」と、バレバレ状態な事に呆れられました
神は見捨てる事はなさらずに、皮の衣を作ってアダムとエバに与えたのです

見捨てないお方を呼び求め、探し求めるのは希望です
だって、神様はそれを願って、待っておられるのですから
強制的にご自分の方を向かせたりはなさいません
私たちが自分の意思で神様を求めるのを忍耐の限りを尽くして待っておられます。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ伝 7-7)

伝道者の書 7-2

2020-01-04 | 00:20


2-祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が、それを心に留めるようにようになるからだ。

生まれた時から死へ向かって歩み出すのは少し考えたら分かる事
それでも死は遠くに感じるものです
縁起が悪いなどと言って死を考えたり語ったりしないのは
本当に残念な事です

2歳で死んでしまう子供、虐待のあげくに死んでしまう子供、不慮の死を迎える人
戦争に巻き込まれる国、誰もが銃を持つ国、自由を叫ぶだけで心を壊される国
理不尽の中に意味があります

人間は必ず死にます
この世での生は死によって終わりますが、それは肉体の終わりでしかありません
喪中の家に行き、本当に人間は肉体の死が終わりなのかと
考えてみる機会となるなら素晴らしいと思います。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書 3-11)

詩編 90-12

2020-01-03 | 00:20


12-それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。

若い頃は死が遠くて日は数えられないほどあると感じていましたが
さすがにこの世の残りの生は今まで生きた日数より少ないのだと覚悟をさせられます
この世には大して未練もなく、私たちの望みは天の故郷ですから
それでいいのですが
まだここで生きるなら肉体的にも精神的にも若い頃とは違う日々となり
知恵を頂きながら生きるのが幸せになる道でしょう


「わたしたちの齢は70年。健やかであっても80年。、、」(詩編90-10)

箴言 16-9

2020-01-02 | 00:20



9-人は心に自分の道を思い巡らす
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは、主である。


歩みを確かなものにするって素敵な言葉だと思います
地に足が付き、前を向いて、一心に生きる感じがあります

自分の道をどんなに思い巡らせても何が起こるのかを知る事は無理
死、病、災害、失業、
この世にあっては避けて通れませんが
その中にあって私たちの歩みを守り導き、確かなものにして下さるのは主。

揺るぎない信頼を持って依り頼みたいです

「私たちは真実でなくても、彼(イエス)は常に真実である。
彼にはご自身を否むことができないからである。」(テモテ第二 2-13)

コリント第二 5-17

2020-01-01 | 00:20

新芽


17-だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ニコデモというユダヤの指導者は「老年になっているのに
どうして又生まれる事が出来るのでしょうか」と
誰もいなくなった夜に、こっそりとイエスに尋ねに来ています

イエスは「人は水と御霊によって生まれなければ、、」と教えて下さいます

人間はイエスが一度死なれて再び生き返られたと同じ体験として
洗礼にて水に沈んで古いものが死に、水から上がって新しくなることを望みます
その後、新しくなった者は、もう、自分をより頼む事ではなく
御霊に導かれて生きる事を選び取るようになるのです


正直なところ、新しくなった事を感じるのは無理でしょう
でも、私たちは自分の感覚ではなく、御言葉を信じる者となりましたから
聖書があなたは新しくなったのだと書かれてあるなら、そうなのです

良く分かりませんが、イエス様があなたの古い人は過ぎたよ、新しいのだよと
言われていますから、どうぞ新しい者として導き扱って下さい
この世に漬かっていると古いままの自分が頭をもたげます
いつも、御霊に聞き従う者でありますように、助けて下さい

ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても
内なる人は日々新たにされています。(コリント第二 4-16)