荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 4月29日

2020-04-30 | 00:20

神はみこころに従って、
からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったので す。
I コリント  12-18


手と足ではどちらがより優れた器官なのか教えていただけますか。
比べようと しても、比べようがありませんね。
人間のからだの中でそれぞれが果たす役割は たいへん異なっています。
そしてそこでは、それぞれが等しく必要とされいます。
しかし多くの人々は神の召しを過小評価しています。
なぜなら、彼らは自分たち がほめそやす特別な器官にはなりえないので、
はなから自分の場所につくことを 辞退します。

この立場はマタイ25章で主イエスが語られた男たちとタラントの
訓話に正確に表現されています。

しもべのひとりは5タラント預かり、もう一人 は2タラントを預かりました。
しかしこの訓話で重点がおかれているのは1タラ ント預かった者だったのです。
1タラントの兄弟の危険性は自分のタラントを 埋めてしまうことにあります。
「どうせ目立つ場所につくことができないのだっ たら、」と彼は考え、自問します。
「ほかのどんな場所につこうとも、いったい どうなるというのだろう」。
それが、どうにもなるのですよ、絶対に間違いなく。

この訓話は2タランとが4タラントになるなら、1は2になれることを教えてい るからです。
自分の生きる道を発見することは、自分の役割を果たすことによる のです。
教会の成長は1タラントを隠してしまう器官によって妨げられ、低迷さ せられているのです。

サムエル記 Ⅱ 7-18

2020-04-29 | 00:20



18-ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。
「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので
あなたはここまで私を導いてくださったのですか。」

神の選びを正しく知る人間は存在しません
立派な人だったから、信仰が篤かったから、穏やかな人だったから
きっと全部、違っているでしょう
何故なら、人間が選ぶのはそういう類の人だからです
神の選びは人間が考えるような意味で選ぶ事は決してないでしょう
神はこの世の取るに足りない者を選びましたともわれていますから

私たちは何もかもが何故ですか、と感動を持って言わざるを得ないのです
この信仰さえも神が与えて下さったものだからであり
この信仰を支えて下さっているのさえ、何故こんなに良くして下さるのですかと
頭を下げずにはいられません

私たちは毎日ダビデと同じ言葉を呟いてしまうのです

サムエル記 Ⅱ 6-21

2020-04-27 | 00:20



21-ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、
むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。
私はその主の前で喜び踊るのだ。


サウルの娘でありダビデの妻であるミカルは
ダビデが神の箱を迎えるにあたって喜び踊る姿をバカにして笑った。
祈りでも
型どおりの決まりきった聞こえのいい言葉しか使わない人がいる
主の前に心を注ぎだすなら、そんな言葉遣いにはならない
傍には幼稚に見えても主は心からの祈りを喜ばれる筈だ
恰好を付けた信仰を神は決して喜ばれない
ミカルはダビデをバカにしたために生涯子供を与えられなかった
私たちは主を喜んでいる人を決して下に見てはいけない

荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 4月25日

2020-04-26 | 00:20

王の仕事をするため、王とともにそこに住んだ。  I 歴代誌 4-23

 
ダビデは多くの屈強の男たちをそばにかかえていました。
ある者は将軍であり、 別の者は門番でした。
王の指示に従って彼らの仕事が割り当てられたのです。

私たちの分担は私たちの選択ではなく、神の御心によって割り当てられたのですから、
将軍にも門番にも喜んでならなければいけません。

あなたがキリスト者であるならば、神はあなたの行くべき道に印を付けておられるのです。
それがすなわち第2テモテ4章7節で使徒が用いた言葉、「走るべき道のり」なのです。
パウロの行程ばかりか、神の子ども一人一人の進むべき道は、
主によってはっきりと示されています。

それゆえ、各々が自分のために神が印を付けられた走るべき道のりを知り、
そこを進むことが最重要課題となるのです。
「主よ、私は次のこと だけお願いしてこの身をあなたに捧げます。
あなたが定められた道に私を導いてください」。これが真の献身です。

私たちの生涯の終わりにパウロとともに 「私は走るべき道のりを走り終えた」と
言うことができるなら、私たちは本当に幸いです。
なぜなら私たちには、この地上の生はたった一度しかありません。
そ して生涯の終わりに、自分の選んだ道が、
ずっと間違っていたことに気づくことほど悲劇的なことはないでしょうから。

イザヤ書 40-28

2020-04-25 | 00:20


28-あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。


私達は天と地とそこにある物を見るなら神の存在を知らされている
神はわたしを知らせると言われた通りに私たちは聞いている

もし認める事が出来ないなら
それはあまりに深く、あまりに広くて人間の思いをはるかに超えるからだ
神の英知は人間には知ることが出来ない
しかし、信じた者を永遠に御そばに置いて下さるお方
神を知ろうとすればするほど遠くに感じて戸惑う
が、信じた時にはあまりに身近で驚くものなのだ

サムエル記 Ⅱ 4-10

2020-04-24 | 00:20





10-かつて私に、『ご覧ください。サウルは死にました。』
と告げて、自分自身では、良い知らせをもたらしたつもりでいた者を、
私は捕らえて、ツィケラグで殺した。
それが、その良い知らせの報いであった。


ダビデは油塗られた王を殺す事を神に対する反逆だと考えていて
例え自分の命を脅かす者であっても神の御心を大事にしていました
自分の部下が自分を喜ばせるためにした事であっても
神の御心に添わない行動を良しとはしませんでした
人を恐れて人の評価が欲しくて神をないがしろにする事は
許されない事です
部下がダビデを恐れるのではなく神を畏れる者であって欲しかったのです

サムエル記 Ⅱ 1-26

2020-04-22 | 00:20



26-あなたのために私は悲しむ。
私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、
あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。


サウルとヨナタンは敵の手に渡り殺されてしまったが
ダビデは自分を殺そうと策略したサウルにも
父親サウルに逆らってまで、自分を助けてくれた親友ヨナタンをも
共に讃えてその死を悲しみました
特に親友ヨナタンの死はどれほど悲しかった事でしょうか
哀歌を作り皆に歌を覚えさせるほどでした

荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 4月20日

2020-04-21 | 00:20

 神よ。私を探り、・・・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て
                      詩篇 139.23以下


 自分を省みても真の自己知識に到達しません。
内省はけっして私たちを明確な 理解へとは導きません。そうです。
神からの光受けて初めて私たちはわかるので す。

難しいことはありません。顔が汚れていないことを確かめたいときにはどう しますか。
手で顔中をそっとなでまわして確かめてみますか。もちろんそんなこ とはしませんね。
鏡を見つけて、それを持って明るいところへと行きます。

光に よってすべては明らかになります。  
「私を探ってください」とはどういう意味かおわかりになりますか。
自分で自 分を探るという意味でないのは明らかです。
「探ってください」とは「神よ、 あなたが私を探ってください」という意味です。

それが照らし出される方法です。 私たちのところへ来て、探ってくださるのは神です。
私の自己に対する真の知識 は自分自身を探ることによっては得られず、
神に自分を探っていただくことで得 られるのです。

ヨハネ書 10-7

2020-04-20 | 00:20

7-まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしは羊の門です。

人間は全て迷える子羊です
羊飼いがいなければ人間は何処へ行っていいのか分かりません
勿論、羊飼いとは主イエス・キリストです
そして羊は何処へ行くにしても門をくぐらなければなりません
その門とは主イエス・キリストです

羊飼いを信頼していれば、何処へ連れて行かれようと不安はありません
むしろ安心して付いて行くでしょう
主という羊飼いを持っている人間は何て幸せなのでしょう

時々、教会の牧師が自分を羊飼いだと言い出す事がありますが
とんでもありません、牧師であろうと神父であろと
すべての人間は主イエスを必要とする迷える子羊なのです

サムエル記 Ⅰ 30-24

2020-04-19 | 00:20



24-だれが、このことについて、
あなたがたの言うことを聞くだろうか。
戦いに下って行った者への分け前も、
荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。
共に同じく分け合わなければならない。」

ダビデの戦いは主の戦いである
ダビデがやっと神に祈り、神の御声を聞いて戦いに向かったのである
手柄は主のものであって人のものではない
荷物のそばで座っていたとしても神の戦いの手先である
人と神の違いは大きい

詩編 31-22

2020-04-17 | 00:20


22-私はあわてて言いました。
「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と。
しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。
私があなたの呼び求めたときに。

神は目を閉じる事も目を背ける事もありません。
暗い所がありませんから見えないという事もありません。
もし、神の目が自分に向けられていないと感じるなら自分に問題があります
神は呼び求める声を聞き逃す事がお出来にならないのです

サムエル記 Ⅰ 25-39

2020-04-16 | 00:20


39-ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。
「私がナバルから受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行うのを
引き留めてくださった主が、ほめたたえられますように。
主はナバルの悪を、その頭上に返された。」
その後、ダビデは人をやって、アビゲイルに自分の妻になるように
申し入れた。



ダビデの勝手な戦いから救ったのはナバルの妻アビゲイルである
ナバルは夫を助けるためにダビデに会いに行ったが
ダビデはアビゲイルに会わせて下さった神に感謝を捧げている

「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ
主からの恵みを頂く。」 箴言 18-22
「しっかりした妻は夫の冠」 箴言 12-4

ダビデのためアビゲイルは神によって備えられた妻である

荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 4月14日

2020-04-15 | 00:20

枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
                                                      詩篇  118-17



ヤハウェの祭壇の上に置かれた火による捧げものの目的はなんだったのでしょうか。
神に完全に焼き尽くしていただくためでした。
動物は捧げる者の財産にあわせて、小牛であったり、
羊であったり、鳩であったりしたのですが、
それらに共通して要求されたことは完全に焼かれることだったのです。
神は完全ではないいけにえをお受け取りにはなりません。
今日、祭壇が意味するものは神のために何かすることではなく、

神のための何者であるかなのです。
神は私たちの働きをではなく、私たち自身を求めておられます。
断末魔で捧げられた旧約聖書の供えものとは違って、
新約聖書の捧げものは「生きた供えもの」(ローマ12.1)なのです。

祭壇の意味は私たちの生活そのものを神に捧げ、
まだ生きているところを必ず焼き尽くしていただくことなのです。
まだ生きているのは、まだ焼き尽くされていないのです。

サムエル記 Ⅰ 23-17

2020-04-14 | 00:20


17-彼はダビデに言った。
「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。
あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。
私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」


親友ヨナタンの励ましいはダビデにとって嬉しいものでしょう
神に捕らえられた者は実の親より神の言葉を信じるようになります
又、ダビデもサウルを打って解決を早めようともしません
神はダビデをサウルの手に渡さなかったと言われた通り
神の時が来なければ無用な戦いをする必要もありません
神は常にダビデと共におられて知恵を授けていました。

ローマ書 8-3

2020-04-12 | 00:20



3-肉によって無力になったために、律法にはできなくなっていることを、
神はしてくださいました。神はご自分の御子を、
罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、
肉において罪を処罰されたのです。


イエス様と出会う前には罪は自分の責任だと思っていたものです。
負うべきもの、改めようと真剣に思うなら罪から逃れられると思っていました。
そういう事の繰り返しが生きることなのだと思っていました。
しかし
イエス様と出会い、人間の努力や意思では罪を解決出来なくて当たり前と知り
どんなに安心した事でしょうか
罪の解決はイエス様の十字架でしか成し得ないものでした
肉の持つ罪は肉の処罰が必要なのでした
イエス様が肉を持ってこの世に来られた事には意味がありました
人間の側は無力である事を認めるだけでいいのでした
イエス様の十字架がすべての解決となるなんて
神業としか言いようがありません

詩編 126-5,6

2020-04-12 | 00:20



5-涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
6-種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。


神は私たちを無駄に動かしたりはなさらない
どんな絶望の時にも、やるべき事をするのが大事と思う
神は目を留めて下さっていると信じる事が出来たら耐えられるでしょう
神の最終の望みは
私たちが神を賛美し、喜び叫ぶ事です 主の元に帰る事です

サムエル記 Ⅰ 20-42

2020-04-11 | 00:20


42-ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。
私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との
間の永遠の証人です。』と言って、主の御名によって誓ったのです。」
こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。

サウル王の嫉妬のために命を狙われていたダビデを
サウルの子供であるヨナタンが何度も助ける
それほどヨナタンはダビデを友人として大切にし、又、愛していた。
ダビデとヨナタンの友情は人間の持ち得る最大のものであって
本当に、このような友人を持つのは幸せだと思わせられる。
ヨナタンは父サウルの嫉妬を悲しんでいたのでしょう
神は身内への愛より神への愛を求めておられます
神はイスラエルを導く者として任命したダビデを決して見捨てる事はなさらない
主が二人の友情の証人であるとはどんなに心強い事でしょう

荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 4月9日

2020-04-10 | 00:20

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約
束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。・・・
「イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
                                             ヘブル  11-17以下


アブラハムが言ったであろうことを私たちが推察することは可能です。
アブラ ハムは、イシュマエルを追い出すようにとの命令は理解できたものの、
今度の新 しい命令は追い出すどころかイサクをいけにえとして捧げることであり、
極めて 理解に苦しむと主張したかもしれませんね。

アブラハムの見当違いの努力の結果 がイシュマエルでした。
ですからアブラハムはイシュマエルが家から追い出され るという決定を尊重するのです。
しかしイサクは。イサクは違うのです。
イサク は、ただ単に息子へのアブラハムの父性愛を満足させるために与えられたのでは なく、
神が誓われたあらゆる御目的を成就するための手段となるべく、
完全に神 から来た者でした。

イサクが除かれでもしたら、神には何がおできになるという のでしょうか。
しかしアブラハムはことを論じないように訓練されていました。
彼はまったく 反論しませんでした。いけにえについて話すことさえしませんでした。
彼はただ モリヤの山に行って礼拝するのだと言っただけです。
それこそ真の礼拝でした。

それは、私たちにくださった神の賜物を全て神にお返しするのです。
私たちの豊 かな経験の全ても、神にある私たちの希望の全ても。
神ご自身の内にはかりしれ ない喜びを見出すために。

ゼパ二ヤ書 2-3

2020-04-09 | 00:20





3-主の定めを行う。この国のすべてのへりくだる者よ。
主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。
そうすれば、
主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。


私たちに出来る事は主に喜ばれる方を選ぶ事です
いつも主は私に何を望んでおられるのかと心を砕いている事です
御言葉を読み、そこから義を思い、イエスに倣い柔和でありますようにと
祈る事を習慣にしたいものです

サムエル記 Ⅰ 17-45

2020-04-08 | 00:20



45-ダビデはペリシテ人に言った。
「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、
私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、
おまえに立ち向かうのだ。


ダビデが強気になれたのはこの戦いは主の戦いであると知っているからです
主はご自分の御名のゆえにダビデに勝利をもたらしますが
ダビデは決して自分の力を誇る事がないと知っています
謙遜である事は神の喜ばれる一番の態度です

箴言 15-1

2020-04-06 | 00:20



1-柔らかな答えは憤りを静める。
しかし激しいことばは怒りを引き起こす。

どんなに正しい言葉であっても上から押さえつけるような言い方は
相手の心をかたくなにしてしまう
誰でも経験で知っている事でしょう
正しい事を言っているのだから相手は素直に聞くべきだと思ってしまう
これは大きな間違いです
正しさにも愛がなければ、神の後押しは期待出来ません
神は正しさよりも上に愛を置いておられますから。

サムエル記 Ⅰ 14-45

2020-04-05 | 00:20


45-すると民はサウルに言った。「このような大勝利を
イスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。
絶対にそんなことはありません。
主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。
神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」
こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。

サウルは民に意見をされるような立場になっています
サウルの問いかけにも神は答える事がなくなり
民は神がヨナタンと共におられると知るようになりました。
ヨナタンは民の現状をよく見て知り
民に良かれという事をします、これはサウルとは違う面です

荒野の食卓、ウォッチマン・ニー、4月2日

2020-04-03 | 00:20

神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、
人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。 ピリピ  3-3


割礼はユダヤ人をそうでない人々から識別する一つの印でした。
これに呼応す る人々の前でのキリスト者の印とはなんでしょうか。
ほどこしでしょうか。知恵 でしょうか。誠実でしょうか。熱心でしょうか。
ほかの人々だってこうした印を 持っています。
その中には神の民に固有のものはどれひとつとしてありません。

しかしたった一つだけ固有のものがあるのです。それは当を得た自信の欠如です。
肉への信頼が滅ぼし尽くされ、神に回帰していることこそ、
神ご自身の民を識別 する印なのです。
神の御心はよくわかっていると、確信に満ちたキリスト者たち と知り合いになりましたが、
そういう彼らは一瞬たりとも自分たちが間違ってい るかもしれない
という認識は持たないでしょう。
しかし私はあなたに、彼らには この上もなく大切な霊的「割礼」、
すなわち「肉に頼らない」という印がまだ見 えていないと申し上げなければなりません。
霊的な人の歩みは、いつでも自分は 間違っているかもしれないと感じ、
へりくだっています。
そのような人は、聖書 外典の至福の教え、
「自分の誤りを悟るものは幸いです」に喜んで賛意を示すの です。

サムエル記 Ⅰ 12-19,20

2020-04-02 | 00:20


19-民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、
あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。
私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」
20-サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、
このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、
心を尽くして主に仕えなさい。

イスラエルの民のために神がなさった事を言い伝えながらも
民は目に見えない神をないがしろにして
目に見える王を立てて下さいと叫び、未目麗しい王を得たが
それは悪であると知っている事である

神は私たちの弱さをご存知であり、助けを下さるお方。
悪を行ったけれども、主に従い、心を尽くして主に仕えなさいと
譲歩して下さり、民の望みを退ける事をなさらない
もし、悪を重ねるなら王も滅ぼし尽くすという言葉は悲しい

コリント第一 1-18,19

2020-04-01 | 00:20


18-十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。
19-それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

救われるために私たちは何をすべきですか、との質問に
「主イエスを信じる」だけだと主はお応えになりました。

難しい問題を解くとか肉体的に苦しい事をすると言うなら
チャレンジする価値があると思う人は沢山いるでしょう
しかし、主は自分の頑張りで達成する事を良しとはなさいません。
主イエスを信じる事は神からの啓示がなくてはなりません
聖書の一つ一つの御言葉に納得する意味を見出しても
信仰を持つには至りません、
神は私たちが到達出来ない所で導いて下さいます
ただ信じるだけですが、この信仰は神に支えられたものでなければなりません

肉体の苦行も何かを得るような達成するような気分を与えてくれますが
それは自己満足に過ぎません
神が下さる信仰は私たちが力を抜いた時にしか与えられません
誇る事のないためです。