学び聞き取り コリント第一 Ⅳ

2020-07-31 | 00:20

この知恵はこの世の知恵ではなく

この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもありせん

2-7

私たちの語るのは隠された奥義としての神の知恵であって

それは神が私たちの栄光のために

世界の始まる前からあらかじめ定められていたのです

勿論、へブル書はユダヤ人たちに向かって書かれた手紙ですから

コリント人への手紙とは性質を異としますが

御言葉の初歩とはどういうものかを具体的に考える

ヒントになるのではないかと思います

イエス・キリスト、しかも十字架に掛けられた方、

そこに焦点をしぼり最も大切なものとして

コリントにいる人たちに語らなければなりませんでした

しかし、成人の間では神の奥義としての知恵を

語るのだとパウロは言っています

2-7

隠された奥義としての神の知恵とは先日学んだものと同じです

キリストが私たちにとって神の知恵となって下さった

神の知恵とは私たちの義と清めと贖いになって下さったという事です

これが隠れた奥義としての神の知恵だと言ってもいいでしょう

2-8

1章に会った通りユダヤ人は印を要求しギリシャ人は知恵を追及します

しかし、私たちは十字架に付けられたイエスを宣べ伝えるのです

ユダヤ人にとっては躓き、異邦人にとっては愚かです

しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても

召された者にとってはキリストは神の力、神の知恵なのです

人間の知恵によってイエス様を判断した結果

人々はイエス様を十字架に掛けた訳です

イエス様の言葉、行い、これを人間の知恵によって

判断した結果がイエス様を殺すという結論になったのです

学び聞き取り コリント第一 Ⅳ

2020-07-29 | 00:20

ですからパウロは十字架に掛けられた方以外は

何も知らない事に決心したと告白したのではないでしょうか

神について宣べ伝えながら神の権威に服しないなら

自分自身が失格者になるという危険があるのです

コリント第一 9-27

私たちが神の事を語りながら自分の素晴らしさを語るようなら

私たちは失格者になる危険があるという事です

神の力に支えられるというのは

私たちが自分自身を神の権威の元に置くという事です

私たちの信仰はそのように自分の知恵に支えられているのではなく

神の力に支えられていなければなりません

そうでなければ私たちは少しづつずれていってしまうでしょう

神の栄光を自分のものへと横取りしてしまうでしょう

私たちはそのような弱さを持っているのだという事を

自覚しなければならないのです

2-6

この6節は2節と対比させている事が分かります

2節ではあなたがの間では、とあります

すなわちコリントにいるあなたがたの間では

イエス・キリストしかも十字架に掛けられた方以外には何も知らないと

決心したのですとありますが

6節では私たちは成人の間では知恵を語ると言っています

すなわち霊的に成長した人たちの間では

それ以上の事を語りますとパウロは記しているのですね


学び聞き取り コリント第一 Ⅳ

2020-07-28 | 00:20

私達が知恵を用いて神について語る事と

神の権威に服する事とは別の事です

私たちは神の権威に服することがなくても人間の知恵を用いて

神の事について語る事は出来るのですが

しかし、それは聖書が求めている事ではありません

コリント第二 4-5

もし、私たちが人間の知恵、優れた言葉、を用いて神を語るなら

神の事を語ると言いながら実は自分素晴らしさを語ってしまうのですね

神の素晴らしさについて語りながら自分の素晴らしさを語る

そうだとすると神は私たちの働きを祝福する事がお出来にならない

パウロ自身は自分の中には誇るものが沢山あるのだと

正直に告白しています ピりピ書 3-6~11

このように告白した後、しかし自分にとって得だとおもったものを

キリストのゆえに損だと思うようになったと記しています

十字架にかかった方以外には何も知らない事としたと言うのは

パウロは神の権威の元に完全に服する決意の表れであります

もし、そうでなければ人々はイエス様に対してではなく

パウロを崇めるようになったのではないでしょうか

事実、第一回の伝道旅行において人々がパウロを拝もうとした

内容が書かれてあります 使徒の働き 14-11

パウロがルステラという所で足萎えを癒した場面で

それを見た群衆がパウロを神だと崇めたとあり

人々が優れた伝道者を崇拝してしまう

人間はそういう弱さを持っているのではないでしょうか

学び聞き取り コリント第一 Ⅳ

2020-07-27 | 00:20

近代オリンピックはギリシャが発祥の地です

彼らは精神的、肉体的にも強くなることを追い求めていたのですが

神のしもべパウロは自分の弱さを正直に記している事が分かります

私たちの信仰は人間の知恵に支えられるのではなく

神の知恵に支えられなければなりません

2-5

言葉を変えると神の力とは神の人格、イエス・キリストしかも

十字架に架かられたお方、この方に支えられなければなりません

私たちの持つ信仰は決して人間の知恵に支えられてはいけません

私たちでも優れた知恵、すぐれた言葉、説得力のある知恵の言葉を

用いて神について語る事は出来るものですね

知恵を用いて神について語る事と私たちが

神の権威に服する事とは別の事です


学び聞き取り コリント第一 Ⅳ

2020-07-26 | 00:20

ピリピ書 2-6~8

イエスはまさに神に従う生涯、自己否定の生涯、従順の結果

十字架に掛けられたという事実

この行動と働き、イエス様の語られた言葉、ここにパウロは

焦点を当て、この事以外には自分は何も知らない事に決心したと言います

当時ギリシャ人は自分たちの知恵を誇っていましたが

それを覆すだけの知恵も言葉もパウロは持っていたのですが

あえて彼らと同じ土俵に乗ろうとはしませんでした

そうしたとしても、ギリシャ人は反発するか軽蔑するかだと

パウロは経験上知っていたのですね

パウロは一回目の伝道旅行や二回目の旅行を通して

色々な迫害、試練を経験していたのです

コリントの前にピりピ、テサロニケ、べレヤ、アテネを通り

それぞれの箇所で大変な思いを経験しています

シラスと共に投獄されたり彼らを匿った家が襲撃されたりしています

使徒の働き 18-9~11

弱り果てるパウロに主は現れて下さり語って下さったのですね

コリント第一 2-3

にあるパウロの姿は伝道旅行にあっての弱った正直な姿です

当時のギリシャ人は自分たちの精神が強くなる事を求め

哲学や知識によって自分たちを武装し、

そればかりではなく、肉体的にも強くなる事を追い求めていました



学び聞き取り コリント第一 Ⅳ

2020-07-25 | 00:20

コリント第一 2-1~10

すぐれた言葉、すぐれた知恵とイエス様のことば

すなわち十字架につけられた方とが対比されています

おそらくパウロはこれまでの伝道旅行の過程で

すぐれた言葉、すぐれた知恵を用いて神を宣べ伝えていたのでしょう

しかし、それらはあまり効果的ではなかったのかも知れません

そこで 1-2 イエス様の事、十字架にかけられた事の他は

何も知らない事を決心したと記しています

他の訳ではイエス・キリストしかも十字架に付けられた方以外はと

訳されていて、

イエス様の全体像でも特に十字架につけられたイエスの他には

何も知らない事を決心したと言うように限定されています

十字架のイエス以外には何も知らないと決心する

イエス様は神の属性として非常に大きなものを持っておられます

例えば天地創造、蘇られて神の右に着座されている、今も

生きて働いておられる、王の王、主の主として将来栄光を与えられる事

このような大きな存在としてのイエス・キリストを語る事も出来ますが

パウロはイエス様の属性の限定された範囲、すなわち

十字架に掛けられたという事、私たちの罪を負って十字架に掛けられた

そのイエス様の事の他にはあなたがたの間では何も語らないと決心した

と、述べています

十字架に付けられた方とは、後の主のへりくだり、主の受けられた

苦痛、屈辱を中心に語っている訳です

コリント第一 15章

最も大事な事として伝えた事

イエス様が聖書の示す通りに私たちの罪のために死なれた事、

葬られた事、聖書に従って三日目に蘇られた事、だと語っています

十字架に掛けられた方、この方以外には何も知るまいと決心した

その言葉の意味を15章では最も大切な事として宣べ伝えると言っています

学び聞き取り コリント第一 Ⅲ

2020-07-24 | 00:20

これは私たちの体が将来完全なものとされる

イエス様と同じ姿に変えられる事を指しています

ローマ書 8-23

これは私たちの将来に備えられている事です

エペソ書 4-30

将来私たちの体が完全なものとされる日のために

すでに聖霊によって証印を押されているという事です

ピりピ書 3-21

キリストは私たちにとっては神の知恵、すなわち義、清め、贖い

となられたのです

私たちはこのように霊、魂、体のすべてにおいて

完全無欠の救いに与るようになる、これが神の知恵だというのです

グノーシスによって人間の知恵によって救いの本質を

ゆがめてしまった事とは次元が違うと言えると思います

人間が色々な事をこねくり回し、もっともらしい事を

言ったとしても神の知恵とは全く違う次元で、あって

私たちを救い、清め、やがて完全なものにして下さる

私たちはそのような救いに与っているのです

私たちは、霊、魂、体、これがキリストと完全に一つになるのです


学び聞き取り コリント第一 Ⅲ

2020-07-22 | 00:20

もし、信者が未信者を見下すような態度を取るとしたら

その人の信仰は間違っていると言えます

私たちは主の一方的な憐れみによって救いに与った者に過ぎません

コリント第一 1-30

神の知恵、又義と清めと贖いと書かれてありますが

この又というのはギリシャ語ではすなわちと言う意味です

すなわち神の知恵は三つの要素から成り立っています

第一は義であり、第二は清め、第三は贖いという事です

義とは何でしょうか、

これは私たちが霊において新しく生まれると言う事です

永遠の命を頂くと言う意味です

ローマ書 5-18,19

私たちが霊によって新しく生まれ永遠の命を頂くことが義です

これは私たちの過去の経験です

私たちはイエス様を信じ受け入れた時に義とされたという事です

二番目の清めとは何でしょうか

これは私たちが感情や意思においてイエス様によって

作り変えられるいく事です

これは私たちの現在の事です

私たちは日々イエス様の清めに与っています

ローマ書 6-19~22

私たちの感情や意思がイエス様にあって清められていきます

三番目の贖いとは何でしょうか

贖いとは罪を償うために代価を支払うという意味ですが

ここで言う贖いとはもう少し限定されています


学び聞き取り コリント第一 Ⅲ

2020-07-21 | 00:20

多くの人は、イエスは何故自分にとって不利な事を

言う必要があるのかと思うのですが

これは救いを受ける私たちには信仰の本質的な部分なのです

イエス様が神の子である

これこそ私たちの信仰の土台です

復活の事実、あるいはイエス様が真の神である事

これは私たちにとっては信仰の本質的な事であり

私たちにとっては神の力そのものです

しかし、滅びに至る人々には愚かな事だと言われます

イエス様が神の子であるかどうかはどちらでも良い事ではなく

私たちはどちらかを選択しなければならない事です

復活と同じく、その宣教のことばの愚かさを通して

主は信じる者を救おうと定められたのです

最後に神の知恵について考えてみたいと思います

コリント第一 1-26~31

私たちが救いに与るとはどういう事でしょうか

この世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者、見下されている者

これが神の救いに与ったという事です

ですから私たちは信仰を持っている、イエス様を知っていると

いう事を誇る事は出来ないのです

この世にあって価値のない者をイエス様は救って下さったという事実です


学び聞き取り コリント第一 Ⅲ

2020-07-20 | 00:20

当時の様子が伺える 使徒の働き 17-32

アテネでの出来事が書かれてあり、アテネはコリントの近くですから

コリントも同じような状況だったと思われます

使者の復活の事を聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は聞く耳を持たなかった

全然信じる気持ちがない事が分かります

こんな事があり得る訳がないという態度です

使徒の働き 17-16~33

人々は使者の復活を受け入れる事が出来ませんでした

彼らにとっては耳新し事を聞きたい、自分たちがまだ知らない知識を

得たい、身につけたいと思っていたわけです

イエス様が真の神であるという事を受け入れられずにいます

おそらくパウロが語る、悔い改めや神の裁きを言う事を

快く思わなかった事でしょう

自分の生き方を変えるという事、自己追及を放棄して

神の救いを受け入れるというのは本当に大きなハードルだったでしょう

それは私たちが自分自身の事を考えてみれば良く分かります

宣教のことばの愚かさ、これはイエス様が蘇った事を指していますが

イエス様が神であるという事も宣教のことばの愚かさとされたでしょう

マタイ伝 26-62~66

イエス様が裁判を受けいている場面ですが

イエス様は自分に対しての不利な証言に対しては反論はしていませんが

自分は神の子であるという事は堂々と語った事が分かります

これは人間の常識から考えると愚かな事です

救いを受ける私たちにとってイエス様が神の子であるという事実は

私たちにとってはまさに救いであり力であるのですが

滅びに至る人たちにとっては妨げる材料となってしまうのです

神への冒涜だ、イエス様のことばを捕らえて

イエス様が十字架にかけられる事となるのです

学び聞き取り コリント第一 Ⅲ

2020-07-19 | 00:20

彼らも元々は自分たちの仲間であったのだが

その群れから外れていってしまいました

彼らも最初はイエス様の救いを受け入れた者たちだったのです

しかし、そこから外れて福音とは違った教えを信じ

宣伝するようになっていきました

それが初代教会にも脅威となっていったという状況を

読み取る事が出来ます

本来なら神の教会が回りに影響を与えていく筈なのに

逆に教会がこの世の影響を受けてしまう

この世の知恵によって福音を理解しようとする傾向が

既に初代教会からあったようです

次に宣教のことばの愚かさについて見て見ましょう

1-21~25

当時の弟子たちは何を一番強調したのかと言いますと

それはイエス様が蘇ったという事です

弟子たちにとってイエス様が復活したというのは

本当に驚くような出来事であったろうと思います

イエス様が十字架に架かった時には弟子たちは

自分とは関係のない人だと逃げ回ったほどだったのですが

復活のイエス様に出会った彼らは全くの別人になっていたのです

彼らは自分の命すら惜しまずに御言葉を宣べ伝えていきます

イエス様の復活を多くの人は信じられなかったでしょう

嘘、作り話しだと考えたでしょう

しかし、人間は嘘や作り話のために命を懸ける事は出来ないはずです

弟子たちが命がけで福音を宣べ伝えた

それは自分自身で復活したイエス様に出会った事

この方こそ真の神だと確信したから出来たのではないでしょうか

イエス様は復活したのかしなかったのか

二つの内一つは事実で一つは偽りです

私たちはどちらを選ぶのでしょうか

イエス様の蘇りは多くの人にとっては愚かな話でした

なぜなら、それは人間の知恵では理解の出来ない事だからです


学び聞き取り コリント第一 Ⅲ

2020-07-18 | 00:20

グノーシスのイエス様の捉え方は、イエス様は霊的存在であって

肉体は持っていなかったというものです

これは聖書の内容とは大きく違います

聖書にはイエス様は肉体を持った神の御子であると

書かれています

へブル書 2-14~18

神が人間の姿をとってこの世を歩まれた事

私たちの罪のために十字架にかけられ三日目に蘇られた事

このような事は人間の知恵では理解出来ません

グノーシスでは人間は霊知を持つ事によって救われると言い

その霊知をもたらすのが霊的存在のイエスだと主張しますが

聖書とは完全に違っています

聖書によると人間が救われるのは恵みと信仰によるのだと

書かれています

人間は恵みと信仰によって救われる、これは救いの本質です

ですからグノーシスの思想は聖書の本質を否定してしまっています

パウロや弟子たちはこの思想に脅威を覚え

徹底的に反対をしました

テモテ第一 6-20

霊知と呼ばれる反対論を避けなさいと書かれています

知恵によって救われるというグノーシスを避けなさいと命じています

ヨハネ第一の手紙 2-22~27

私たちは誰からも教えを受ける必要がないのだとあります

この言葉はグノーシスを念頭に置いた言葉だと言われています

あなた方には教師は必要がありません、なぜなら

あなた方の内に主ご自身が住んでいて下さる

御霊として宿って下さっています

その御霊の声に耳を傾けさえすれば

あなた方は誰からも教えを受ける必要はないのだと

聖書には書かれてあるのです



学び聞き取り コリント第一 Ⅲ

2020-07-17 | 00:20

今回はコリント第一 1-19~31 神の知恵というテーマで

考えていきたいと思います

当時の人々は知恵を追及する生き方でそれは現代にも通じます

イエス・キリストをこの世の知恵で理解しようとすると

どんな事が起こるでしょうか

理解の及ばない箇所は切り捨てる、あるいはおとぎ話とする

聖書には沢山の奇跡が書かれてあります

イエス様が処女から生まれた、あるいは十字架に掛けられた後

三日後に蘇ったなどです

そのような事をこの世の知恵で理解する事は出来ません

ですから切り捨てるか作り話とするか

日本のおとぎ話しと同じと考えるかです

当時のギリシャ地方ではグノーシス主義という考えが

非常に流行っていてグノーシスとは知識という意味で

人々はこのグノーシス主義の影響を受けていて

当時の教会にとっては脅威であり

福音にとっては致命的なものでありました

どういう考え方かと言いますと

人間はグノーシスによって救われるというのですね

この思想は一つの前提に基づいているもので

霊と物質とは完全に異なるもので、二元論ですね

物質というのは本質的に悪であり

一方霊というのは完全に善であるという考え方です

この前提の結果肉体によってなされる事は邪悪な罪であって

意味のない事である、何故なら命とは霊的領域に存在しているから

グノーシスは肉体のみを罪悪視しましたが

人間の内側にある罪の問題を考える事が出来ませんでした


学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-16 | 00:20

7番目の言葉

ルカ書 23-46 父よ。わが霊を御手に委ねます

ここでイエス様の完全な明け渡しを読み取る事が出来ます

父なる神に対する完全な信頼、それゆえにイエス様は

御手に委ねますと言う事が出来たのです

イエス様にとっても人間と同じ姿をとって

この肉体の命を終えるという事は初めての経験です

自分の経験した事のない世界をこれから経験するのですが

その時に出来た事は主なる神にすべてを委ねるという事でした

御父に対する揺るぎない信頼こそ

イエス様の生涯に一貫したものでした

ここに信仰の創始者であり完成者であるお方の姿を見る事ができます

そして私たちはイエス様の態度から学ばなければなりません


学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-15 | 00:20

主イエス様が十字架上で経験した究極の苦しみ

これさえ神への信頼の絆を強めたと言っていいでしょう

私たちが人生で経験するすべての苦しみは結果として

父なる神への信頼を強める事になると私たちは証する事が出来ます

私たちは苦しみを通して自分の弱さを知り、自分の罪を知ることになります

そしてその時私たちは神への信頼を学ぶようになります

例えばヨブですが、ヨブは大きな試練を経験しましたが

結果的には主に対する信頼を深める事になりました

ダビデもしかり、サウルから逃れて荒野を逃げ回ったその苦しみが

ダビデの主に対する信頼が強められていきました

他の信仰の先達もすべてそうです、使徒たちもそうです

彼らは数々の迫害、あるいは苦難を経験しましたけれど

それによってさらに主に信頼を深めていきました

私たちはこうした信仰の先達を通して大いに慰められます

私たちは自分自身を否定してすべての試練、苦難を

神の手から受け取る必要があるのではないでしょうか

事故憐憫を乗り越えてすべてを神の御手から受け取る

これも自己否定のなせるわざではないでしょうか

そして、7番目の言葉へと移ります


学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-14 | 00:20

6番目の言葉は「完了した」です

すなわち贖いの御業は完全に成し遂げられたという意味です

罪の代価、罪を償うための代価が完全に支払われたのです

これは勝利宣言です、自己否定が完成したという事です

その結果私たちは神の前に罪赦され義とされた者

神の子どもとなる事が出来たのです

父なる神の御心を完全に成し遂げた事への満足

ようやくイエス様の渇きがここで満たされました

前後しますが、4番目のことば マタイ伝 27-46

イエス様はここで我が神、我が神と呼びかけられておられます

最初のことば、二番目の時には父よと呼びかけられましたが

ここでは我が神と言っています

それは私たちの言葉を代弁しているのではないかと思います

私たちの身代わりとして神に呼び掛けておられます

私たちの代わりに神から完全に見捨てられた者となって下さっています

そしてこの言葉は詩編の22編の引用です

おそらくイエス様は心の中で詩編22編の全体を思い起こしておられたのでしょう

そして祈っていたのではないでしょうか

22編は前半は嘆きで始終していますが、後半は神を讃える賛美となっています

学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-13 | 00:20

大切な自分の家族を失うという経験をされた方は大勢います

その心の傷が癒されるためには

私たちは神の家族とされていると知る必要があります

イエス様は十字架上で「女の方、そこにあなたの息子がいます」と言い

弟子に向かって「そこにあなたの母がいます」と言いました

すなわち自分が亡き後あなた達は家族としてこの地上で

過ごしなさいと言われました

私たちもこの地上で大切な家族を失ったとしても

主にある家族、イエス様を長子とする兄弟姉妹として

生きて行く事が許されているのです

そしてそれが私たちの心の傷を癒してくれるのです

イエス様の最後の言葉ですが、一つ飛ばして5,6番目を見てみます

ヨハネ書 19-28 5番目の言葉は「渇く」です

イエス様の体から水分が出て行き肉体的にも渇きを覚えたのですが

同時にイエス様の精神的な渇きを示していると思われます

精神的な渇きをいうのを私たちも経験します

満たされない思いと言っていいと思います

ヨハネ書 4章にサマリヤの女が登場しますが

彼女は5回、結婚離婚を繰り返した事が書かれてあります

彼女は愛されたいのですね、それが満たされないので

結婚を繰り返しているのだと思います

私たちの中にも満たされない思いがあります

しかし、イエス様の場合の渇きとは一体何でしょうか

イエス様はこのサマリヤの女と話し終わった時に弟子たちが

食べ物を持ってきますが ヨハネ書 4-32

しかしイエスの食べ物とは何でしょうか ヨハネ書 4-34

わたしを遣わした方の御心を行う、そのみわざを成し遂げる事が

わたしの食物であると言われました、すなわちイエス様の渇きというのは

御父神の御心を完全に成し遂げたいという思いです

自分の思いではなく、神の御心を成し遂げたい

それを完全に成し遂げるまでは自分の心は満たされないのだという

それがイエス様の渇く、だったのではないでしょうか

ここにも自分の思いではなく父の御心を成し遂げたいという

自己否定が現れているのではないでしょうか


学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-12 | 00:20

そして三番目のことばは、ヨハネ書 19-26,27

マリアに向かってそこにあなたの息子がいますと言い

愛する弟子ヨハネにそこにあなたの母がいますと言われました

自分の息子イエスが十字架に掛けられている姿を見て

マリアの心境はいかほどだったでしょうか

自分が十字架に架かるほどの辛い経験だった事でしょう

かつてシメオンは母マリアに言いました

ルカ書 2-35

まさに母マリアはイエス様の十字架の前で

剣があなたの心さえ刺し貫くという経験をしているのです

一体どうしたら剣に刺し貫かれた心が癒されるのでしょう

マリアも又事故憐憫から解放される必要があります

どうしてこんな事が、、どうしてこんな思いをしなければ、、、という

この思いを乗り越えなければその傷が癒される事はありません

マリアの心の傷を癒すためにには

この悲しい出来事も主の御手から受け取るしかないのです

そこにマリアの自己否定が要求されているのです


学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-11 | 00:20

罪を犯す人は自分で何をしているのか分からない人です

そのような人に対して、父よ彼らをお赦し下さいと言うためには

自分の感情を完全に乗り越える必要があります

イエス様は自分自身を否定されたからこそ、そのような言葉を

語る事が出来たのです、

自分の捕らわれていたならこのような祈りは出来ません

私たちも人を許すため、自分に悪を図った人を許すためには

自分自身を乗り越える必要があります

その意味でこの最初の言葉もイエス様、私たちも

自己否定の必要を語っているのではないでしょうか

ルカ書 23-35以下

これがイエス様の二つ目の言葉です

イエス様に対して約束を自分のものにした犯罪人の一人の

口調な何だったでしょうか

彼は自分のした事も報いを受けているのだから当たり前だと言いました

彼は自分の罪について最期の最期に理解出来ました

イエス様に対してはこの方は悪い事は何もしていない

この方には全く罪がなく神ご自身であるとそう言い

あなたが御国の位に付かれた時には私を思い出して下さいと

イエス様の憐れみを求めました

自分の罪を認める事も自己否定の結果だと思います

私たちは自分の罪を認めなければ救われる事はありません

もう自分には何も出来ない、自分は救われる価値のない者だと

この事実を認めた人だけが主の憐れみを受ける事ができるのです。


学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-10 | 00:20

もし信仰者が自分自身の古い性質、自我と言っていいと思いますが

それを大切にするなら、せっかく自分の内に住んで下さった

新しい命、主イエス様の力を封じ込めてしまうのです

ルカ書 9-24

逆説的な言葉です、自分の命を救おうと思う者は

要するに自分を追及し、自己実現をしようとする人、自分の事を完成させたい人

自分自身を大切にする、このような事を求める人は

結局自分の命を失ってしまうと言っています

そうではなくて、イエス様のために自分の命を失う者

自分を大切にしない者、自分よりも主イエス様を大切にする者は

本当の命を自分のものにする事が出来るとイエス様は言われました

十字架の言葉、これは自己否定のことばです

信仰生活を送るうえでの原則となると言えると思います

私たちはこの原則の上で聖書を読み、理解し、御言葉に従い

そしてみことばを実践していく、この事を求められています

私たちはあらゆる御言葉をこのような態度で読むべきだと思います

すべての聖書の学びはそのような態度が必要だと思います

今日は特に十字架のことばという事でイエス様が十字架上で

お語りになった七つの言葉についてみてみたいと思います

本当はどのみことばでも良いのですが

せっかく十字架のことばと記されているのでイエス様の七つの言葉を

自己否定という側面からみてみたいと思います

ルカ書 23-34

最初のことばは「父よ。彼らをお赦し下さい、彼らは何をしているのか

自分で分からないのです」

学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-09 | 00:20

十字架のことばとは自己否定のことば

滅びに至る人々にとって愚かな言葉だと言う当時はその通りだったでしょう

ギリシャの人々にとっては自己追及、自己実現を追い求めていたわけですから

自己否定のことば、十字架のことばを聞くと

この人は何と愚かな事を言うのだろうという反応だったでしょう

救いを受ける私たちにとっては神の力です

自己否定というのは私たちが御言葉を読む時に、あるいは日常生活で

もっと言えば信仰生活を送るうえでも大きな原則となるでしょう

自己否定のない聖書解釈、あるいは自己否定のない信仰生活は

知恵を深める事があるかも知れませんが

主が望まれている事ではありません

私達がどんなに聖書について詳しく知るようになったとしても

そこには確固たる自我があるのなら私たちは本当の意味で

御言葉の意味を知る、あるいは主が喜ばれる信仰生活を

送る事も出来ないと言っても過言ではないでしょう

ガラテヤ書 2-20

私はキリストと共に十字架に付けられたというパウロの告白は

パウロの自己否定を言い表した言葉だろうと思います

もはや私が生きているのではなくキリストが私の内に生きておられる

この言葉でパウロは自分自身を否定し己の内に住まわれる主イエス様の

命によって自分は生きているのだという告白をしています

この自己否定こそギリシャの知恵を追及する人々にとっては

愚かの極致だったことでしょう

自分を否定したら自分はどうなってしまうのだろうか

これはギリシャ人だけではなく私たちも信仰をもったら自分はどうなるのかと

自分が自分でなくなる恐怖を多く人は持つでしょう

その恐怖が信仰を持つ事への妨げにもなるのではないでしょうか

自分を否定する事は想像する出来ない事です

しかし、私たちがその壁をどうやって乗り越えられるのかと言うと

おそらく自分を言う者をドンドン追及していくと解決出来ない事に突き当たる

自分の中にはどうしようもない罪がある

あるいは死を目前にしたなら人間は無力であるという現実

このような事に直面した時に、自分以外の大きなものに信頼する

そうするしか希望がないのだと気付くのではないでしょうか

その時に初めて自分自身を主に明け渡す事を知るようになるのではないか

私たちは改心を経験して、信仰生活を始めますが

いつの間にか又古い自分がよみがえり

せっかく頂いた新しい命を覆ってしまう、そのような危険を経験します


学び聞き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-08 | 00:20

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学び書き取り コリント第一 Ⅱ

2020-07-07 | 00:20

前回の学び、コリント第一 1-9 を振り返って

信仰生活における私たちの力の源泉は私たちの内に住まわれている

主ご自身であるという事

ヨハネ伝 14-17 全能の神が真理の御霊として私たちの内に

済んで下さっている、その事をキリスト者は知っている

真理の御霊を受けた者だけがその事を知る事が出来るという事

そしてこの言葉はイエス様が復活し天に引き上げられた時に成就しました

コロサイ 2-9,10 私たちはキリストにあって満ち満ちている

その事を知る時に私たちに与えれている恵みと特権の大きさに

改めて主の前に恐れる者となるのです


今回から コリント第一 1-10~18

コリントの教会には争いがあった事が書かれてあります

争いの内容は分裂でした、

パウロがコリントに滞在した一年半の後、アポロが訪れています

アポロは話し上手な人物でしたが

ヨハネのバプテスマしか知らなかった、伝道者としてはパウロより未熟です

イエス様を受け入れた時に聖霊が下る事を知らなかったのです

アポロはまだ聖霊の一致について知らない事が大きな問題です

コリントの人々は話し上手なアポロに付く、最初に伝道に来たパウロに付く

イエス様の復活を実際に見たペテロに付く、あるいはイエスに付くといって

自分が誰に付くかなどという考え方をしています

これは大きな問題です

誰に付くかと自分の勝手な考え、決定で分裂を起こしていますが

これは自分が主であって、自分の判断が主であって

イエス様をのけ者にしています

イエス様より自分の考えを優先させる結果としての分裂です

コリントの人々の間違いの一つは自分を主としてしまっている事

もう一つはイエス様を人間と同等の位置に置いた事です。

マタイ伝 17-1~8

かつてはペテロはモーセやエリヤをキリストと同等に置くという

過ちを犯しています

ただ、イエス様お一人という態度が私たちにも必要です

この態度が兄弟姉妹の一致を保つ秘訣でもあります

自分の考え、経験、知識もその人にとっては尊いものですが

それよりもさらに、イエス様あどのように考えておられるのか

御言葉は何を語っているのか、主の御心はどこにあるのか

私たち一人一人がそれも求めなければならないのです

そして、その時にこそ私たちには一致が与えられるのです

学び聞き取り コリント第一 Ⅰ

2020-07-06 | 00:20

聖書でいう交わりとは

自分は主とこのような事を経験した、このようにして主と出会った

自分はこういう事を主から恵んで頂いた、このような事を共有する、

そういう意味でのコイノニア、交わりという意味だと思います

キリスト者同士の交わり、あるいは主イエス様との交わりを

共有するというのは重要な事です

例えば夫婦においてもそうだと思いますが

夫婦であれば色々な物を共有する事になります

家族、子供、時間、財産、又、色々な事を経験し喜びや悲しみ

すべてを共有する、そこに本当の意味での交わりがあると思います

主イエス様との交わりも、主イエス様とすべてのものを共有するというのが

本当に意味がある事でしょう

主イエス様との交わりでは、私達が御言葉を読んだり祈ったりだけではなく

私たちが主イエスさまの聖さや純粋さ、あるいは愛、喜び、平安、、、

御霊の実を共有する、分かち合う、そこにこそ本当のイエス様との

交わり、主イエス様の命を共有する、これが当の交わりだと思います。

天国に至る旅を私たちがこの地上で続けていくためには

父なる神とイエス様から日々恵みと平安を

頂かなければなりません

主イエス様との交わりに私たちが入れられる事で

イエス様のすべてを私たちは共有している

この素晴らしい事実を私たちは忘れない、

私たちに与えられている光栄と特権をいつも覚えて毎日の生活を送る

その事を私たちは第一コリントの冒頭で覚えておきたい事だと思います。






学び聞き取り コリント第一 Ⅰ

2020-07-05 | 00:20

コリント第一 1-6,7

どうして私たちは賜物に欠ける事がないのでしょうか

それは私たちの内に全能の神が宿っておられるからです

コロサイ書 2-9,10

キリストの内にこそ神の満ち満ちたご性質が宿っている

これがパウロの確信でした

そしてその事を私たちも決して忘れてはいけないのです

1-8,9

主ご自身が私たちの事を最後まで固く保って下さる

イエス・キリストの日に責められる事のない者として保って下さる

ですから私たちは安心して全ての重荷を主に委ねる事が出来ます

自分自身を主に明け渡す事が出来るのです

神は真実なお方、その真実なお方と私たちは絶えず交われる事が

許されているのです

コリント第一 15-?

主にお委ねするという事を私たちは動かされる事なく行なう事が必要です

そしてそれは決して無駄にはならないと聖書が約束して下さっています

1-9 に交わるという言葉がありますが

交わりとは私たちが一か所に集まって語り合うという意味で使いますが

この交わりはギリシャ語ではコイノニアと言って

この言葉の元々の意味はすべての物を共有すると言う意味です

すなわち、語り合う事自体が目的なのではなくて

復活の主に出会ったという経験を色々な人と分かち合うという意味で

当時は使われていたようです


学び聞き取り コリント第一 Ⅰ

2020-07-04 | 00:20

さらに平安というものも、私たちが歩んでいくうえで

力の源泉になると言えます。

普通、平安というと心が穏やかであると言う意味で使われますが

聖書が言う平安とはそれ以上のものだと思います

それは調和のとれた活動、私たちがキリストの体の一部として

各器官が調和の取れた活動をする

キリスト者として果たすべき役割を十分に演じる

それぞれの働きに摩擦がない、それぞれが頭であるキリストに繋がって

完全な調和、完全な一致、を保っている状態

これが聖書でいう平安ではないでしょうか

そしてその恵みと平安は 1章3節にある通り

私たちの父なる神と主イエス・キリストから来るものなんです

私たちの心がけとか努力などによって得られるものではなく

日々、父なる神とイエス・キリストから頂かなければならないのです

1-4,5

言葉といい知識といい私たちはキリストにあって豊かな者とされたのです

聖書は何と言っているのか、語るべき福音は何なのか

私たちはその事を今、知る事が出来るのです

生活のすべてにおいて私たちはすでに豊かにされている

それは何故かというと私たち自身がキリストにある者とされたからだというのです

1-5

聖書が示す驚くべき事実の一つは全能の神が

改心した人間の中に宿っておられる、住んで下さと言う事実です

今日、主はご自身が宿った一人一人の人間を通して

ご自身の栄光を放ちたいと願っておられるという事

ご自身が宿っておられる沢山の人を通して福音を語り

ご自身の光を放ちたい、ご自身の栄光を現したい、これが主の御心です




学び聞き取り コリント第一 1章

2020-07-03 | 00:20

1-2

コリントにある教会へとありますが、当時はまだ教会堂はなく

神父や牧師がいたのでもありません

これは良く言われる「エクレシア」と呼ばれる集まりです

神によって召し出された人たちの集まりの事です

この群れの事を神の教会と呼んでいます

この世的な道徳的に堕落した人たちから召し出された人たち

異教徒や偶像礼拝から救い出された人たち、彼らに向かってパウロは

この手紙を書きました。パウロはここういう言葉を使いながら

コリントにいる信者たちに与えられた栄光と特権を思い起こそうとしています

パウロはこの人たちを聖徒と呼んでいます

将来に聖徒とされるとは言わず、現在すでに聖なる人とされた人たちと呼びます

今日、神は私たちの事をも聖徒、聖なる者と呼んで下さいます

私たちにもその栄光と特権とが与えられているのです

その事をパウロはコリントの信者にも私たちにも

思い起させようとしておられます

私たちも道徳的に堕落したこの世から異教徒から偶像礼拝者から

召し出された、救い出された者として呼びかけられています

1-3

この言葉はパウロの他の手紙の冒頭でも書かれていますが

これは決まりきった挨拶ではなく、今日、テーマとして取り上げたいものです

私たちがキリスト者として歩むうえでの力の源泉を現しているものです

すなわち、私たちの力の源泉は主イエス様が下さる恵みと平安であるという事です

私たちは恵みという言葉を聞くと、私たちの救い、私たちの改心における

主イエス様から与えられているものという意識が大きいと思います

ローマ書 8章3-23,24

律法の行いによってではなく、私たちが義と認められるのは神の恵みによる

そういう意味で神の恵みという言葉はよく使われますが

恵みとは実はそれ以上であると知る必要があります

すなわち、改心した信者が罪から解放されるためにも

この神の恵みはどうしても必要なのだという事です

私たちが罪に対して死に、新しい命によって日々生きるために

神の恵みはどうしても必要なのです

私たちが主イエス様の聖さ、純粋さ、愛、喜び、平安、寛容、親切、

善意、誠実、柔和、自制、こういう御霊の実を結ぶためには

どうしても神の恵みが必要です

私たちは御霊の実を自分の努力や決意によっては得る事が出来ません



学び聞き取り コリント第一 1章

2020-07-02 | 00:20

そして、パウロは二回目の伝道旅行へと出発します。二回目は前回とは

比較にならない程の広範囲に福音を宣べ伝える旅となり

その時に訪れた都市のひとつがコリントであり、一年半に渡って滞在し

福音の種を蒔きました

しかし、コリントから戻った後、コリントの悪い噂を耳にします

コリント第一 1-11

教会の分裂の問題、不品行、偶像礼拝、など様々な問題が起こっていました


私たちにとって罪の赦しは大切な事ですが

日々の信仰生活の中で罪から解放された者として歩むという事も

同じように大切な事です

罪の赦しと罪からの解放は同時に語られなければなりません

もし、罪の赦しだけが語られ、罪からの解放が語られないとしたら

聖書の福音は薄っぺらなものとなってしまうでしょう

罪赦されたキリスト者が、いかに罪から解放された歩みを進めていくのか

この事は救われたキリスト者にとって大きなテーマだと思います

言い換えますと、肉の性質によってではなく

主にあたえられた御霊によって歩むために私たちはどのようにすればよいのか

その事を学ぶ必要があります

そしてパウロが強調したのもこの点にあるのです

このテーマは時代や地域を問わない普遍的なテーマであります

パウロは道徳的に堕落したコリントの信者に対して

憤慨したり批判したりせずに、キリスト者に与えられている栄光と特権について

語り始めた事が分かります

コリント第一 1-1

パウロは人に任命されたのではなく、神の御心によって召命されたと言い

かつてはパウロ(サウロ)は主の復活を証言する者を迫害する側でしたが

ダマスコへの途上、イエス様に出会い彼は完全に変えられました

ですから、自分が誰かに説得されてキリスト者になったのではないと

パウロ自身がよく知っていました

自分は神によって召し出され使徒として任命されたのだと

これがパウロが強い確信であり、その確信は死ぬまで揺らぎませんでした



学び聞き取り コリント第一 1章

2020-07-01 | 00:20

信仰生活は、私たちがそれまでの歩みを悔い改めて

福音を信じる事から始まります。

日本においては、主イエス様を信じるという事は回りと違う事を

する訳ですから、最初のハードルが高いものです

このハードルを乗り越えるのは貴重な事です

コリント第二 5-17

私たちが主イエス様を信じ、救われたなら、その人には助け主、すなわち

聖霊が与えられます。その主の霊が私たちを新しくして下さる。

これは素晴らしい事実です。これを改心と呼びます。

この改心は私たちの決心によりますが

しかし、この後にキリスト者としてどう歩むのかは毎日の問題であり、

毎日、私たちは色々な事で試みを受けます。

聖書には人を改心に導く御言葉よりも

改心したキリスト者を正しく導く御言葉の方が圧倒的に多いです。

悔い改めて福音を信じれば主は必ず救って下さり神の家族として下さり

私たちを天国へと導いて下さいます。

しかし天国に至る過程は人によって様々ですね

コリント第一 3-10~15

私たちは火をくぐるようにしてやっと救われるのか、あるいは主に

よくやった忠実なしもべだと言って頂けるのでしょうか

勿論イエス様にお会いした時によくやった忠実なしもべだと

言って頂きたいと思うわけです。

そのために私たちは救われた後、主の御心にかなう歩みを重ねたいと思うのです

パウロは第二回の伝道旅行でコリントを訪れます。

主イエス様が復活し昇天された事を目撃した弟子たちは

助け主、聖霊を受けました。

そして、主イエス様の復活をエルサレムで証言するのですが、

当時のユダヤ教の指導者たちから激しい迫害を受ける事になります

その迫害する側にはパウロもいたのです

ステパノの殉教も迫害のピークでしたがその場にはパウロ(サウロ)もいました

その迫害は悲劇的ではあるのですが

主はその事をもお用いになる事が出来ます

その迫害を通して二つの重要な事が起きました。一つはパウロ自身の改心です、

迫害する側のパウロが主に出会い改心します、

二つ目は迫害を逃れるために各地へ散って行った弟子たちが

主の復活の証言者として各地で福音を宣べ伝えるようになりました

そして多くの異邦人が結果的にイエス様を信じるようになったのです

後に、救われたユダヤ人たちはモーセの律法に従って

割礼を受ける事を条件に出してきますが

エルサレムに戻ったパウロは割礼の有る無しは

救われる条件ではないという認識を示し

弟子たちの共通認識を土台とした教会が発展していきます