この記事はブロとものみ閲覧できます

前回の学び、コリント第一 1-9 を振り返って

信仰生活における私たちの力の源泉は私たちの内に住まわれている

主ご自身であるという事

ヨハネ伝 14-17 全能の神が真理の御霊として私たちの内に

済んで下さっている、その事をキリスト者は知っている

真理の御霊を受けた者だけがその事を知る事が出来るという事

そしてこの言葉はイエス様が復活し天に引き上げられた時に成就しました

コロサイ 2-9,10 私たちはキリストにあって満ち満ちている

その事を知る時に私たちに与えれている恵みと特権の大きさに

改めて主の前に恐れる者となるのです


今回から コリント第一 1-10~18

コリントの教会には争いがあった事が書かれてあります

争いの内容は分裂でした、

パウロがコリントに滞在した一年半の後、アポロが訪れています

アポロは話し上手な人物でしたが

ヨハネのバプテスマしか知らなかった、伝道者としてはパウロより未熟です

イエス様を受け入れた時に聖霊が下る事を知らなかったのです

アポロはまだ聖霊の一致について知らない事が大きな問題です

コリントの人々は話し上手なアポロに付く、最初に伝道に来たパウロに付く

イエス様の復活を実際に見たペテロに付く、あるいはイエスに付くといって

自分が誰に付くかなどという考え方をしています

これは大きな問題です

誰に付くかと自分の勝手な考え、決定で分裂を起こしていますが

これは自分が主であって、自分の判断が主であって

イエス様をのけ者にしています

イエス様より自分の考えを優先させる結果としての分裂です

コリントの人々の間違いの一つは自分を主としてしまっている事

もう一つはイエス様を人間と同等の位置に置いた事です。

マタイ伝 17-1~8

かつてはペテロはモーセやエリヤをキリストと同等に置くという

過ちを犯しています

ただ、イエス様お一人という態度が私たちにも必要です

この態度が兄弟姉妹の一致を保つ秘訣でもあります

自分の考え、経験、知識もその人にとっては尊いものですが

それよりもさらに、イエス様あどのように考えておられるのか

御言葉は何を語っているのか、主の御心はどこにあるのか

私たち一人一人がそれも求めなければならないのです

そして、その時にこそ私たちには一致が与えられるのです


聖書でいう交わりとは

自分は主とこのような事を経験した、このようにして主と出会った

自分はこういう事を主から恵んで頂いた、このような事を共有する、

そういう意味でのコイノニア、交わりという意味だと思います

キリスト者同士の交わり、あるいは主イエス様との交わりを

共有するというのは重要な事です

例えば夫婦においてもそうだと思いますが

夫婦であれば色々な物を共有する事になります

家族、子供、時間、財産、又、色々な事を経験し喜びや悲しみ

すべてを共有する、そこに本当の意味での交わりがあると思います

主イエス様との交わりも、主イエス様とすべてのものを共有するというのが

本当に意味がある事でしょう

主イエス様との交わりでは、私達が御言葉を読んだり祈ったりだけではなく

私たちが主イエスさまの聖さや純粋さ、あるいは愛、喜び、平安、、、

御霊の実を共有する、分かち合う、そこにこそ本当のイエス様との

交わり、主イエス様の命を共有する、これが当の交わりだと思います。

天国に至る旅を私たちがこの地上で続けていくためには

父なる神とイエス様から日々恵みと平安を

頂かなければなりません

主イエス様との交わりに私たちが入れられる事で

イエス様のすべてを私たちは共有している

この素晴らしい事実を私たちは忘れない、

私たちに与えられている光栄と特権をいつも覚えて毎日の生活を送る

その事を私たちは第一コリントの冒頭で覚えておきたい事だと思います。







コリント第一 1-6,7

どうして私たちは賜物に欠ける事がないのでしょうか

それは私たちの内に全能の神が宿っておられるからです

コロサイ書 2-9,10

キリストの内にこそ神の満ち満ちたご性質が宿っている

これがパウロの確信でした

そしてその事を私たちも決して忘れてはいけないのです

1-8,9

主ご自身が私たちの事を最後まで固く保って下さる

イエス・キリストの日に責められる事のない者として保って下さる

ですから私たちは安心して全ての重荷を主に委ねる事が出来ます

自分自身を主に明け渡す事が出来るのです

神は真実なお方、その真実なお方と私たちは絶えず交われる事が

許されているのです

コリント第一 15-?

主にお委ねするという事を私たちは動かされる事なく行なう事が必要です

そしてそれは決して無駄にはならないと聖書が約束して下さっています

1-9 に交わるという言葉がありますが

交わりとは私たちが一か所に集まって語り合うという意味で使いますが

この交わりはギリシャ語ではコイノニアと言って

この言葉の元々の意味はすべての物を共有すると言う意味です

すなわち、語り合う事自体が目的なのではなくて

復活の主に出会ったという経験を色々な人と分かち合うという意味で

当時は使われていたようです



さらに平安というものも、私たちが歩んでいくうえで

力の源泉になると言えます。

普通、平安というと心が穏やかであると言う意味で使われますが

聖書が言う平安とはそれ以上のものだと思います

それは調和のとれた活動、私たちがキリストの体の一部として

各器官が調和の取れた活動をする

キリスト者として果たすべき役割を十分に演じる

それぞれの働きに摩擦がない、それぞれが頭であるキリストに繋がって

完全な調和、完全な一致、を保っている状態

これが聖書でいう平安ではないでしょうか

そしてその恵みと平安は 1章3節にある通り

私たちの父なる神と主イエス・キリストから来るものなんです

私たちの心がけとか努力などによって得られるものではなく

日々、父なる神とイエス・キリストから頂かなければならないのです

1-4,5

言葉といい知識といい私たちはキリストにあって豊かな者とされたのです

聖書は何と言っているのか、語るべき福音は何なのか

私たちはその事を今、知る事が出来るのです

生活のすべてにおいて私たちはすでに豊かにされている

それは何故かというと私たち自身がキリストにある者とされたからだというのです

1-5

聖書が示す驚くべき事実の一つは全能の神が

改心した人間の中に宿っておられる、住んで下さと言う事実です

今日、主はご自身が宿った一人一人の人間を通して

ご自身の栄光を放ちたいと願っておられるという事

ご自身が宿っておられる沢山の人を通して福音を語り

ご自身の光を放ちたい、ご自身の栄光を現したい、これが主の御心です





1-2

コリントにある教会へとありますが、当時はまだ教会堂はなく

神父や牧師がいたのでもありません

これは良く言われる「エクレシア」と呼ばれる集まりです

神によって召し出された人たちの集まりの事です

この群れの事を神の教会と呼んでいます

この世的な道徳的に堕落した人たちから召し出された人たち

異教徒や偶像礼拝から救い出された人たち、彼らに向かってパウロは

この手紙を書きました。パウロはここういう言葉を使いながら

コリントにいる信者たちに与えられた栄光と特権を思い起こそうとしています

パウロはこの人たちを聖徒と呼んでいます

将来に聖徒とされるとは言わず、現在すでに聖なる人とされた人たちと呼びます

今日、神は私たちの事をも聖徒、聖なる者と呼んで下さいます

私たちにもその栄光と特権とが与えられているのです

その事をパウロはコリントの信者にも私たちにも

思い起させようとしておられます

私たちも道徳的に堕落したこの世から異教徒から偶像礼拝者から

召し出された、救い出された者として呼びかけられています

1-3

この言葉はパウロの他の手紙の冒頭でも書かれていますが

これは決まりきった挨拶ではなく、今日、テーマとして取り上げたいものです

私たちがキリスト者として歩むうえでの力の源泉を現しているものです

すなわち、私たちの力の源泉は主イエス様が下さる恵みと平安であるという事です

私たちは恵みという言葉を聞くと、私たちの救い、私たちの改心における

主イエス様から与えられているものという意識が大きいと思います

ローマ書 8章3-23,24

律法の行いによってではなく、私たちが義と認められるのは神の恵みによる

そういう意味で神の恵みという言葉はよく使われますが

恵みとは実はそれ以上であると知る必要があります

すなわち、改心した信者が罪から解放されるためにも

この神の恵みはどうしても必要なのだという事です

私たちが罪に対して死に、新しい命によって日々生きるために

神の恵みはどうしても必要なのです

私たちが主イエス様の聖さ、純粋さ、愛、喜び、平安、寛容、親切、

善意、誠実、柔和、自制、こういう御霊の実を結ぶためには

どうしても神の恵みが必要です

私たちは御霊の実を自分の努力や決意によっては得る事が出来ません




そして、パウロは二回目の伝道旅行へと出発します。二回目は前回とは

比較にならない程の広範囲に福音を宣べ伝える旅となり

その時に訪れた都市のひとつがコリントであり、一年半に渡って滞在し

福音の種を蒔きました

しかし、コリントから戻った後、コリントの悪い噂を耳にします

コリント第一 1-11

教会の分裂の問題、不品行、偶像礼拝、など様々な問題が起こっていました


私たちにとって罪の赦しは大切な事ですが

日々の信仰生活の中で罪から解放された者として歩むという事も

同じように大切な事です

罪の赦しと罪からの解放は同時に語られなければなりません

もし、罪の赦しだけが語られ、罪からの解放が語られないとしたら

聖書の福音は薄っぺらなものとなってしまうでしょう

罪赦されたキリスト者が、いかに罪から解放された歩みを進めていくのか

この事は救われたキリスト者にとって大きなテーマだと思います

言い換えますと、肉の性質によってではなく

主にあたえられた御霊によって歩むために私たちはどのようにすればよいのか

その事を学ぶ必要があります

そしてパウロが強調したのもこの点にあるのです

このテーマは時代や地域を問わない普遍的なテーマであります

パウロは道徳的に堕落したコリントの信者に対して

憤慨したり批判したりせずに、キリスト者に与えられている栄光と特権について

語り始めた事が分かります

コリント第一 1-1

パウロは人に任命されたのではなく、神の御心によって召命されたと言い

かつてはパウロ(サウロ)は主の復活を証言する者を迫害する側でしたが

ダマスコへの途上、イエス様に出会い彼は完全に変えられました

ですから、自分が誰かに説得されてキリスト者になったのではないと

パウロ自身がよく知っていました

自分は神によって召し出され使徒として任命されたのだと

これがパウロが強い確信であり、その確信は死ぬまで揺らぎませんでした




信仰生活は、私たちがそれまでの歩みを悔い改めて

福音を信じる事から始まります。

日本においては、主イエス様を信じるという事は回りと違う事を

する訳ですから、最初のハードルが高いものです

このハードルを乗り越えるのは貴重な事です

コリント第二 5-17

私たちが主イエス様を信じ、救われたなら、その人には助け主、すなわち

聖霊が与えられます。その主の霊が私たちを新しくして下さる。

これは素晴らしい事実です。これを改心と呼びます。

この改心は私たちの決心によりますが

しかし、この後にキリスト者としてどう歩むのかは毎日の問題であり、

毎日、私たちは色々な事で試みを受けます。

聖書には人を改心に導く御言葉よりも

改心したキリスト者を正しく導く御言葉の方が圧倒的に多いです。

悔い改めて福音を信じれば主は必ず救って下さり神の家族として下さり

私たちを天国へと導いて下さいます。

しかし天国に至る過程は人によって様々ですね

コリント第一 3-10~15

私たちは火をくぐるようにしてやっと救われるのか、あるいは主に

よくやった忠実なしもべだと言って頂けるのでしょうか

勿論イエス様にお会いした時によくやった忠実なしもべだと

言って頂きたいと思うわけです。

そのために私たちは救われた後、主の御心にかなう歩みを重ねたいと思うのです

パウロは第二回の伝道旅行でコリントを訪れます。

主イエス様が復活し昇天された事を目撃した弟子たちは

助け主、聖霊を受けました。

そして、主イエス様の復活をエルサレムで証言するのですが、

当時のユダヤ教の指導者たちから激しい迫害を受ける事になります

その迫害する側にはパウロもいたのです

ステパノの殉教も迫害のピークでしたがその場にはパウロ(サウロ)もいました

その迫害は悲劇的ではあるのですが

主はその事をもお用いになる事が出来ます

その迫害を通して二つの重要な事が起きました。一つはパウロ自身の改心です、

迫害する側のパウロが主に出会い改心します、

二つ目は迫害を逃れるために各地へ散って行った弟子たちが

主の復活の証言者として各地で福音を宣べ伝えるようになりました

そして多くの異邦人が結果的にイエス様を信じるようになったのです

後に、救われたユダヤ人たちはモーセの律法に従って

割礼を受ける事を条件に出してきますが

エルサレムに戻ったパウロは割礼の有る無しは

救われる条件ではないという認識を示し

弟子たちの共通認識を土台とした教会が発展していきます







https://ping.blogmura.com/xmlrpc/2cw6zyqam4zs/ にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ