学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-27 | 00:20

私たちは自分の犯した罪、蒔いた種の刈り取りをしなければなりません
その事を通して罪の恐ろしさを知る事になります
そしてその罪を毛嫌いし、その罪から離れたいと思う事が
主の導きであるという事だと思います
もし、私たちが間違った愛で自分自身の罪や周りのにいる人達の罪を
受け入れてしまったらどうでしょうか
それは一見愛のある行為と見えるかも知れませんが
結果的に罪を犯している人を主から離れさせ祝福を失わせると
同時に教会の証も台無しにしてしまうでしょう
イエス様ご自身が恥を受けてしまうという事にもなります
ですから、厳しいようですが不品行の罪を犯した兄弟をパウロは
あなたがたの交わりから除きなさいと言っているのです
結果的に彼の肉は滅ぼされるが彼の霊は主の日に救われると言っています
肉が滅ぼされるとははっきりとは書いていませんが
私たちがいたずらに罪に留まるなら、あくまでも罪を愛して
その内に留まろうとするなら遅かれ早かれ
私たちは自分の心と体の均衡を失う事になるのではないでしょうか
その結果ある種の病気にかかる事もあるでしょう
罪の放縦に身を任せるなら私たちはここに書かれているように
私達自身の肉を滅ぼされてしまう可能性があるのです
それでも彼の霊が救われるのならやむを得ないというのが
パウロの判断だったのではないでしょうか
アビシャロムを正しく裁く事が出来なかったダビデはエルサレムと
追放されてしまいました  サムエル第二 15-30
彼は泣きながらオリーブ山の坂を上ったと書かれてありますが
彼は何故泣いていたのでしょうか、エルサレムを負われたからでしょうか
そうではなくて子供たちの中に自分自身の罪を見たのではないでしょうか
アムノンとタマルはダビデとバテシェバのようであるし
その後アビシャムが兄をダビデがウリヤを殺したように殺した事
自分の愛する子供たちが自分と同じ罪を犯している事を見ると
自分の罪を思い出してしまう
それが苦しくてダビデはオリーブ山の坂を泣きながら上ったのでしょう
主の懲らしめは本当に厳しいものだと思います
しかし、このようなダビデの罪や失敗にも関わらず
聖書はダビデを神の人と記しています
懲らしめを受けたダビデは神によって清められ神の御心にかなう者として
聖書に書かれたのではないでしょうか




学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-25 | 00:20

ダビデは子供たちの悲惨な状況を正しく治める事が出来ませんでした
何故なら、彼らの中に自分の罪をみたからではないでしょうか
そういう意味でダビデは苦い刈り取りをしなければなりませんでした
教会の中に不品行な罪を犯している人がいるという事に関して
正しく裁くというのは難しい事です
まして、その人が教会にとって重要な立場にある人だとしたら
毎月の献金が多額であり教会がその人の献金を当てにしているとしたら
そういう人の犯している罪を裁けるでしょうか
案外、うやむやにしてもみ消してしまう事も起こり得ます
それが人間の弱さなのではないでしょうか
5-3
心はそこにありますと書いてありますが、原文では霊はそこにあるです
コリントの人は魂、肉によって振舞っていたのとは対照的に
パウロは霊の人として振舞っていたという事です
肉体はそこにいなくても霊はあなたがたと共にいると言っています
5-4,5
サタンに引き渡したという表現はとても厳しいですが
教会、又は集会の交わりから追放したという事です
私たち兄弟姉妹は一つの群れを作り交わりを保つ事は
ある種の守りの中に置かれている事を意味します
主ご自身がその群れ全体を守って下さる、私たちは交わりの中で
守られているのだと言えるのではないでしょうか
しかし、そこから引き離されてしまうと私たちはこの世の支配者である
サタンから直接攻撃にさらされるという事です
これは決して救いを失うという事ではありません
私たちがイエス様を信じ救いを頂いたならイエス様は私たちを
引き離す事はなさいません
誰もイエス様の手から私たちを奪う事あないと聖書が言っています
ヨハネ伝 10-28,29
しかし、私たちが罪を犯した時にはイエス様、父なる神様から
厳しい懲らしめを受ける必要があると聖書の御言葉です
それは私たちを滅ぼすためではなく本当の意味で私たちが悔い改めて
父なる神の愛に立ち返るためなのです


学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-24 | 00:20

私たちの教会は人を裁かない、どんな人でも受け入れる愛のある教会だと
自分たちの寛容性を誇っていた可能性もあります
そしてパウロのように厳しい事を言う人達に向かって
何故あなたたちは愛のない態度を取るのか、人を裁くのかと
イエス様だって裁いてはいけないと言っているではないかと
反論していたかも知れません
そしてこの事は現代の教会でも起こり得る問題です
教会内の罪に対して私たちはどのような態度を取るべきなのか
これはとても難しい問題でしょう
この事に関して旧約聖書から考えてみたいと思います
サムエル第二 12-10~13
ダビデと家族にも似たような罪を犯した事が書かれています
神の人ダビデとよく言われますが、このダビデと家族にも
大きな罪が入り込んでしまいました
それに対してダビデは必ずしもはっきりとした態度を取る事が出来ませんでした
私たちはこの事を見ると聖書の御言葉を実践するのは
決して簡単な事ではないのだと改めて思わされます
ダビデにアビシャロムという息子がいましたが
彼の犯した罪をダビデはきちんと裁く事が出来ませんでした
結果的に神ご自身がアビシャロムをの事を裁かざるを得なかったのです
ダビデ自身は罪を指摘された時に素直に悔い改めそれゆえにダビデの罪は赦されましたが、
同時にダビデは自分の蒔いた種を刈り取らなければなりませんでした
ダビデの妻たちを息子アビシャロムが寝取るという恐ろしい事となりました
サムエル記第二 16-21,22      18-9~15
このような事があってもダビデは息子を守ろうとします
アビシャロムは長い髪を誇っていましたがそれが命取りとなりました
ダビデが早い段階でアビシャロムを正しく裁いていたなら
イスラエルの国も分裂する事はなかったのではないでしょうか
ダビデが息子を溺愛するあまり正しい判断が出来ませんでした
最初にダビデはアビシャロムを裁く機会もあったのです
それはアビシャロムが兄アムロムを殺した出来事の時に
裁く事が出来たはずなのに中途半端な形で受け入れてしまいました
結果として彼は増長し父ダビデに反抗して
自分がイスラエルを治めようという野望を持ってしまったのです



学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-23 | 00:20

コリント第一 5-1~13  8回目 テーマは主の愛と裁き
主の裁きは厳しいのですがその根底には本当の愛があるという事を学びます
今までの1章から4章ではコリントが抱える問題を見てきました
それは分裂の問題でした、分裂の理由は兄弟姉妹の中にある自分を誇る思い
あるいは自分の知性に大変に自信があってその奢り高ぶりからの
対立が生まれたという事でした
それは私たち人間が抱える魂の問題だと言ってよいでしょう
私たちの体は魂、霊、肉体からなっていると聖書にありますが
魂の問題がコリントの教会に分裂をもたらしていたという事です
今回5章では不品行の問題が扱われています
これははっきりと罪であるのか、そうではないのか
これは私たちの体、肉体の問題です、聖書の中では限界事例というのか
これははっきりと罪であるのかそうではないのかと
争われるような事があります、例えば、離婚に関してなどです
ある人はこれは許されないと考えるし、あるいはあるケーズでは
これは仕方がないと考える人もいます
しかし5章1節で扱う不品行の問題は議論の余地がありません
誰が見てもこれは主の前に罪である事は疑いを挟む余地がありません
この不品行があなたがたの間にあると記されています
と言うのはこの事実が広く知られているという事です
この事によってコリントの兄弟姉妹ひいてはイエス様の証が
台無しになってしまうと言う状況になっていた事が分かります
しかもそれは異邦人の中にもない位の不品行だと言われています
当時のローマの法律では母親との結婚は禁じられていました
現在の日本でもそうです
異邦人の中にもないような不品行がコリントの中にあった
従ってコリントの兄弟姉妹が抱えていた問題というのは
一般社会が抱えていた問題よりも深刻であった訳です
そのような状態にあって、どういう態度を取るべきかをパウロは述べています
5-2
コリントの兄弟はそのような兄弟がいるのを知りながら黙認していたのです
もしかしたら積極的に自分たちの寛容さだと誇っていたのかも知れません






学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-22 | 00:20

私はこう確信しています、死もみ使いも権威ある者も今ある者も
後に来る者も力ある者も高さも深さもそのほかのどんな被造物も
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離す事はできません
これがパウロの確信でした
第四のテーマは命を分け与える使徒です
コリント第一 4-14~21 を見て見ましょう
パウロはここで大胆にこの私がキリスト・イエスにあって
あなたがたを産んだと言っています
私はその意味であなたがたの父であると言っています
福音の命を分け与えたという意味であなたがたの父だと言います
3-10,11 には土台を据えたという表現を用いましたが
ここではそれを言い換えて、あなたがたの父であると言い
養育係とは異なったという言い方をしています
4-16
この言葉を言えるのは本当に自分が忠実な管理者でなければなりません
自分が主の前に忠実でなければ私に倣う者になって下さいとは言えません
私がそうしているのと同じようにあなたがたも
福音の命を他の人たちに分け与える者となって欲しいという意味です
神の奥義の忠実な管理者として歩んで下さいと言うのがパウロの言葉です
4-17
ここでもキリスト・イエスにある私たちの生き方を
あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう
4-18
神の国は言葉や人間の知識あるいは理論ではなくて力にある
これは命にあると言う意味です
神の国は私たちの命についての事なのだと語られているのだと
今、知る必要があるのではないでしょうか


学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-21 | 00:20

コリント第一 4-9
パウロの時代は犯罪者は大衆の娯楽のために死刑が行われ
競技場で野獣と戦うような事さえさせられました
そして、それはある意味でメイエベントとなり
彼らはまさに行列のしんがりとして最後の登場させられたのです
パウロはこの事を神が自分たちを見世物として
すべてのものの最後に登場させられたという比喩で表現したのです
そして自分たちは今み使いにも人々にも見世物となったと言っています
何も誇るものがない、ただ人々から避難され中傷され
実際に投獄され処刑されてしまう者だとパウロはこの時点で自覚しています
コリント第一 4-10~13
神に忠実に生きるという事は当時はまさにこのような
人生を歩むという事を意味していました
大変に厳しい時代であった事が分かります
パウロはローマ人への手紙8章36節の中で
あなたのために、私たちは一日中死に定められている
私たちはほふられる羊とみなされた、と書き残しています
が、その後にしかし私たちを愛して下さった方によって
これらすべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです
と、高らかに宣言しているのです
これらすべての中にあってもというのは
患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、を指しているのですが
そういう中にあっても圧倒的な勝利者となるのです

学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-15 | 00:20

コリント第一 4-7,8
一体、誰があなたを優れた者と認めるのですか、
今あなたが手にしているものはすべて主から頂いたものじゃないかと
パウロは訴えています、この事は信仰の本質に関わるものだと思います。
多くの宗教は人間の行いを要求します
人間の良い行い、沢山の寄付をする事、人間が色々な修行を通して良くなる事
このような事を求めますが、しかし聖書は違います
聖書が提供している救いとは行いが入る余地がないのです
私たちに与えられている救いは神によって一方的に与えられたものです
救いの御業が完成するためには
私たちの努力が介入する余地はありません
神によって完全に私たちの救いを成し遂げて下さったのです
その意味で私たちはもらったものでない物はないという事です
私たちが持っているすべては神の恵みによって与えられたものです
そして私たちが何かを誇るなら、その誇りの根拠は何もありません
私たちが思い上がる要因は何もないのです
信仰の原点に帰りなさいという事だと思います

学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-13 | 00:20

旧約聖書の中にもソロモンが語っている場面があります
列王記第一 8-18,19
ダビデに対してあなたはわたしの名のために宮を建てる事を心がけていて
あなたはよくやった確かにあなたはそう心がけていた
その心がけに対して主はよくやったと評価して下さっています
実際、目に見える形で神殿を建てたのは子供のソロモンでしたが
主はダビデの心の中の計り事を明らかにされ
そしてダビデに対する賞賛が確かに届いたという事ではないでしょうか
私たちも結果を急ぐ必要はないという事です
大切なのは主がご覧になるのは私達の動機です
そして私たちの忠実な働きを通してどのような実を結ぶのかこれは神の権限なのです
ですから私たちは結果が見えないからと言って失望する事はないのです
私たちはあくまでも主に対して忠実である事を心がければよいのです
いたずらに結果を出そうと焦る必要はないのです

学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-12 | 00:20

しかし、神が裁くのは私たちの心の中のはかり事だと4章5節で言っています
私たちの動機が何処にあるのか、これが神の裁きの対象だと言うのです
私たちがどれだけ結果を出したかという事ではありません
パウロもおそらくパウロの生きた時代には
それほど大きな結果は出していないのではないでしょうか
彼が一生懸命福音を伝えた、コリントの教会も実際のところ問題だらけです
けれど彼の忠実さに対して神が豊かに報いて下さったのです
それはパウロが生きていた時代というよりは
むしろ、ぞの後の時代、パウロの手紙に触れた数えきれない人々が
パウロの働きの豊かな実を受ける事が出来たという事ではないでしょうか
そして主はパウロの心の中をしっかりと評価して下さったのです
5節の最後にある通り神から各人への評価が届く、
これはパウロ自身の事を言っているのではないでしょうか

学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-09 | 00:20

確かにパウロの生涯は迫害、投獄、処刑、そのようなものになりました
当時パウロはおそらく自分の書いた手紙が聖書として
2000年後の今日、全世界に残っているとは想像だにしなかったでしょう
しかし確かに彼の忠実な働きというのは豊かに実を結び
今日まで生き続けているのです
次のテーマにも関係してきますが、今日の2番目の学び「心の中を裁く主」
コリント第一 4-3~5
パウロの事を当時の人々は色々な見方をしていたようです
ユダヤ人から見るとパウロは裏切り者で、使徒たちの働きでは
回心したパウロ、当時はサウロと呼ばれていましたが
このサウロを殺そうと計画していたと書かれています
一方ではある人々はわたしはパウロに付くとまで言っています
パウロを過大評価する人々もいたのです
又、他の手紙を見るとパウロを見下している人達がいた事も分かります
彼の手紙は重みがあるが実際に会うと大したことがないと
言っていた人たちもいたと書かれています
人間は表面的にしか裁く事しか出来ません
目に見える事しか裁けないものなのです

学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-07 | 00:20

主に対する忠実な奉仕に関してオースチン・スパーク氏の
コリント第一 4-2 の学びがあるので読んでみます

パウロの死んだ時の状況を冷静に見ると、そこに大きな成功があったとは
とても思えません、全くそのような事ではありません
パウロは生涯は誰からも支持されるようなものではなかったのです
彼は大変に孤独な最期を迎えましたが、忠実でした
管理者には忠実である事が要求されます
それでも大きな犠牲を払いながらもこの要求通りに彼が生きた事で
その後他の者たちはどれほど豊かになったでしょうか
パウロは死んでいません、彼の働きから湧き出たものすべて
彼の果たしたすべての務めが私たちにどれほど大きな意味を持っているか
パウロが知ってくれたいたならと私は思わずにはいられません
主はそのしもべを通して私たちと会われたのであり
私たちはパウロを通して伝えられたキリストの満ち満ちた様の奥義
あるいはその深みの近くにさえ到達する事は出来ません
この世に生き続ける私たちですが、もし今の人生の2倍、3倍を
生きられたとしてっもパウロの管理者としての忠実さのおかげで
自分が何を得たのか、いつも新しい何かを見いだしていくでしょう
これは何世紀にの長きにわたって続いて来た事です
これは忠実な管理者の働きであり
この管理者が地上での責務から解放されたとしても
その管理者の事はこの世に生き残ります
忠実である事はどんな時も私たちの欲望をはるかに超えて報いられます
主が私たちを忠実さの中に保って下さいますように
その忠実のゆえに私たちの完全な失敗に陥るように見えたとしても
そのまま保って下さいますように、主は私たちを良い管理者にして下さいます

学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-04 | 00:20

コリント第一 4-1~
忠実な管理者が今回のテーマです
こういう訳で、、、と言うのはすべてを支配されているのは神です
大切なのは成長させて下さる父なる神であり
土台なるキリスト・イエスであり、私たちの内に宿る御霊です
私たちはキリストのしもべ、あるは神の奥義の管理者に過ぎないと4章が言っています
この管理者と言う言葉は執事とも訳されていますが
執事とは家族に必要なものを分け与える管理人という意味だそうです
まさに、御言葉の恵みを分け与えるという職務を負った人の事を
指していると言っても良いですね
その管理者に求められている資質は忠実さです
死に至るまで忠実でありなさいと黙示録2-10にありますが
パウロ自身がまさに死に至るまで忠実であった
主のしもべであったと言って良いと思います
主に仕えるというのは一生かけて全うする価値ある事です

学び聞き取り コリント第一 Ⅵ

2020-10-03 | 00:20

結果としてこの世の原則によって教会が支配され神の宮が破壊されてしまう
ですから私たちはそのような事のないように
神によって精錬され磨き上げられた信者となるために
正しい態度で神の訓練を受けなければなりません
そしてそのような信者だけが御心にかなう教会を建て上げる事が
出来るという事ではないでしょうか
コリント第一 3-18~20
神は知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえると言われていますが
これはヨブ記5-12~ から書かれてある引用です
コリント第一 3-21~23
すべてはあなたがたのものであり、あなたがたはこのようなものに
支配される事はないと言います 大切なのは永遠なるお方イエス様です
コロサイ書 2-9,10
私たち一人一人はイエス様を内に宿す者、御霊を内に宿す者
キリストにあって私たちは満ち満ちている
このキリストがすべての支配と権威の頭であるという事です
コリント第二 6-10
何も持たないようでもすべてのものを持っている
なぜなら私たちの内に主ご自身が住んで下さるからです
三位一体の神というテーマで学ばせて頂きましたが
父なる神は私たち一人一人を成長させて下さるお方
そして神の御心にかなうように私たちを訓練して下さるお方
子なるキリストは私たちの信仰生活の土台となって下さいます
そしてその上に成長させられた者のみが御心にかなった
建物を建て上げる事が出来る
精錬された金、銀、磨き上げられた宝石で神の建物を建て上げる
そして私たちの内に宿る、あるいは教会全体の内に
私たちを満たし導いて下さる御霊が住んでいて下さる
この事を教えて下さった箇所でした

学び聞き取り コリント第一 Ⅵ

2020-10-02 | 00:20

誰かが神の神殿を腐敗、汚れ、損なうなら神はその人を滅ぼす
神の宮を壊すという事を当時の状況から考えてみると
例えば神の宮の中にユダヤ教的要素、ギリシャ哲学の要素、
そのようなものを持ち込む事だとパウロは言っています
ユダヤ教の律法主義、ギリシャ哲学の人間の知恵、このようなものを
持ち込む事は神の教会を腐敗させる事、汚す事、損なう事です
それに対する神の裁きは大変に厳しいですね
神がその人を滅ぼすと言っています
イエス・キリストの土台の上にユダヤ教や哲学やこの世の原則を
持ち込んではいけないのです
神の宮を腐敗させ、汚れさせ、損なわせるのは駄目だと
非常に厳しく言われているのが分かります
教会にこの世の原則を持ち込むと裁きを受ける事となります
魂や肉の働きを用いる事も良くありませんが
教会全体の中にそのような社会の原則、誤った律法主義、人間の知恵
そのようなものは持ち込んではいけないという事です
それがどんなに素晴らしいものであっても
人間の意思や知恵、魂の働きで教会を建て上げては駄目なのです
注意しなければならないのは一見熱心な信者であっても
肉の働き、魂の働きを神の宮に
持ち込んでしまう可能性があると言う事です

学び聞き取り コリント第一 Ⅵ

2020-10-01 | 00:20

ですから、私たちは神の教会の全体に対して責任を負います
私は目立たない信者で結構です、私は隅っこで静かにしています
あまり関わらないで欲しいと言うのは実は神の御心ではありません
一人の信仰生活の歩みと言うのは大なり小なり教会全体の
影響を及ぼすという事ですですから、私たちは一人一人が
主の前に御心にかなう歩みをしなければいけない
私達は教会全体のために自分の歩みを正していかなけばなりません
そして、三番目のテーマ、御霊です
コリント第一 3-16,17
神の宮というのも一人一人のキリスト者の指す事が多いです
私たち一人一人が神の御霊を宿す神の神殿であると言われていますが
ここではどちらかというとコリントにいるキリスト者全体を
指していると言って良いと思います
地域教会という言葉を使っても良いと思いますが
コリントにいるキリスト者全体を指して
あなたがたは神の神殿でありその中にキリストの御霊が宿っていると
パウロは言っているのです
誰かが神の神殿を壊すなら神がその人を滅ぼされると言う厳しい言葉です
前回は木、草、藁で建物を建てたとしても
あなたがたは火をくぐるようにして救われると書かれていましたが
ここではもし誰かが」神の神殿を壊すならその人を滅ぼすと神が言われています
神の神殿を汚し、損なったりして腐敗させるなら
あなたがたがそのような働きをするならば神はその人を滅ぼすと
厳しい言葉を言われているのです
人はどんな罪をも赦して頂けますが聖霊を汚す罪は
赦されませんとイエス様が言われていますが同じ事です