荒野の食卓 ウォッチマン・ニー 3月9日

2020-03-10 | 00:20

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされて
いるのでもありません。
ただ捕らえようとして、追求しているのです。
そして、それを得るよ うにと
キリスト・イエスが私を捕えてくださったので す。 ピリピ3-12


私たちの主人ほど多くの僕を抱えている主人はほかにいません。
そして私たち の主人は一人一人にふさわしい仕事をお与えになっておられます。
名もなき僕すらナアマンの必要が満たされるような進言を与えるために近くにおかれていまし た。
私たちの多くは神が与えてくださった私たちの立場について
ぶつぶつと不平 をもらします。
これをしたいのに、神はあれを割り当てられます。
ここで主に仕えたいという抱負があるのに、神の私たちへのご計画はほかにあります。
このような明白なくいちがいに直面したとき、神の私たちに対するご目的を、
私たちが 回心したときにまでさかのぼって思い出してみるのがいいでしょう。
というのも 神はあらかじめ、私たちが生まれる前から、
私たちを取り巻く状況を定めておられたからです。
神は決してその場の思いつきでことを行われません。
神はずっと、ずっと以前から用意しておられるのです。
ですから神の召しについて、不平を言 う必要もなければ、
それを誇る必要もありません。同様にねたまれるものもいま せん。
なぜならほかの人々の優れたところも私たちには関係ないからです。
私たちが人生を振り返るとき、
すべては神によって備えられていたものであることを 認め、屈服します。
ですから私たちは捕らえ損なったと恐れるには足りません。
この確信を持つことこそ真の休息にほかなりません。

Comment

Post a comment

Secret