荒野の食卓、ウォッチマン・ニー 1月26日

2020-01-27 | 00:20

  イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」といわれた。
                                        ヨハネ伝 19-30


  キリスト者の信仰の始まりは「為す」ではなく、「為された」です。
私たちの理性がこれに逆らうのはもちろんです。
動き始めなければ、どうやって目的地にたどり着くことができましょう。
なんで努力もしないで到達できるでしょう。

今までに、何かを得ようと働きかけもしないで、手にしたことがいったいあったでしょうか。
しかしクリスチャンというのは妙なものです。休息から始まるのですから。
最初に私たちがなんでもやろうとしてみれば、何も得られません。
もし私たちが到達しようと求めれば、私たちはすべてを失います。
イエスは「完了した」と言われました。
そしてパウロは次のようなことばでエペソ人への手紙を書き始めます。
「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを
祝福してくださいました」。

ですから私たちは、自分の力で達成するのではなく、まさにこの始まりに、休息するように、
そして神が為してくださったことを喜ぶようにと招待されているのです。

Comment

Post a comment

Secret