学び聞き取り コリント第一 九

2021-02-23 | 23:45

6-14
イエス様が蘇られたようにイエス様を信じる私たちもやがて蘇りの体を持ちます
これは将来の事ですが、もう既に新しい命は私たちの内に始まっているのですね
へブル書 9-13,14
イエス様の血は私たちの肉体を清める力があるという事です
私たちの良心を清めて死んだ行いから離れさせる
そして生ける神に仕える事が出来るようになると書かれてあります
蘇りの力、これは既に私たちの内に働いているのです
私たちの体は主との関係において非常に大切なものであるという事です
ある人は私たちの魂や霊だけが大事であって体はそれほどではないと
考える人がいるかも知れません
例えば、神仏の前で手を合わせても心の中では偶像を拝んではいないのだから
構わないだろうと考える人もいます
しかし、体において行っている事は実は神との霊的な関係に影響があるのです
私たちの体は主のものであって体にあって行う事は
私たちと主との関係に影響を与えるという事を知らなければなりません
6-15
ここでも知らないですか、と質問形式での記述が出て来ます
あなたがたの体はキリストの体の一部である事を知らないのですか
あなたがたは当然その事を知らなければならないという意味ですね
キリストの体を取って遊女の体とするのですか
そんな事は絶対に許されませんと書かれてありますね
私たちはキリストから離れて存在する者ではなくて
まさにキリストと一つにされている、キリストの体の一部なのです
キリストと結びつけられた花嫁のような存在であって
切っても切り離す事の出来ない深い結びつきの中にいるのですね

学び聞き取り コリント第一 九

2021-02-22 | 23:45

オリンピックの選手は生活のすべてを、その目的のために
自分自身を打ち叩いて管理しているでしょう、何を食べるのかという事も含め
24時間金メダルを取るために努力をしていると思います。
目標を目ざして日々鍛錬する
彼らは朽ちる物、金メダルを取るためにそこまで努力をしています
あなたがたは朽ちないもの、天の御国のためにどれほど自分を制する必要があるのか
パウロはその事を私たちに問いかけているのではないでしょうか
私たちにとって益とならないもの、これを切り捨てるという事は
私たちが律法に縛られているという事とは違うのですね
私たちは積極的に神に喜ばれる事、永遠の世界にとって意味のある事
これをおいもとめるべきだとパウロは言われているのですね
そして更に私たちはどんな事にも支配されないと記しています
私達人間の抱えている弱さは欲望の問題ではないでしょうか
私たちに与えられている自由を私たちは抑制的に用いなければ
私たち自身が欲望に支配されてしまうという事でしょう
6-13
これは当時のことわざだったそうですが、人間は食べるために生きている
これは残念なことわざですね
神はそのどちらをも滅ぼされますとあり、やがてこの肉体は土に返ります
しかし、体は主のためであると書かれてある通り
私たちの体は私たちが欲望を追い求めるためにではなく
主のために用いるためとここで示されています
私たちには食べ物は必要ですが、食べ過ぎれば体を壊しますし
健康食品などに拘り過ぎれば、ある意味食べ物に支配されている事になります
拒食症など食べるという事で頭が一杯になってしまう状態も
やはり主を悲しませてしまう事なのではないでしょうか
私たちにとって食べる必要はあるけどれども、それに支配されては駄目
私たちの体は欲望を追い求めるためではなく、主のために用いるべきです

学び聞き取り コリント第一 九

2020-11-05 | 00:20

ですから私たちは今、律法の呪いから解放されています
今でも、厳格に律法を守る事によって義とされようとする人たちもいます
そのような人たちの生活はがんじがらめです
しかし恵みによって救われた私たちは自由を享受する事が出来ます
そのような私たちが歩む基準が何かを12節は教えてくれます
私たちには大きな自由が与えられていますがすべてが益になるのではありません
あるいは私たちは自由を享受する中で自分の欲望に支配されてはなりません
私たちにとって何が益となるのか、これは損得の問題ではなく
私たちが目指すべき目標にとって有益であるかどうかです
では私たちの目標は何かというと
やがてイエス様とお会いした時によくやった忠実なしもべだと
声を掛けて頂く事ではないでしょうか
イエス様からこのような声を掛けて頂くために私たちには
私たちにとって何が必要であり何を切り捨てるべきでしょう
これを基準としてこの地上を歩むべきだと言う事です
コリント第一 9-24
この世の人でもオリンピックで金メダルを取るために日々練習し
あるいは使うシューズなどを研究し目標を目ざして努力をしています
私たちは朽ちないもの、主の御国のために一体どれだけ
自分自身を制する必要があるのかとパウロは問いかけているのです




学び聞き取り コリント第一 九

2020-11-04 | 00:20

私たちの犯す罪には色々な程度というのがあります
この社会では例えば傷害の程度の程度によって罰金は刑だったり
殺人なら死刑もあるでしょう、この地上にあっても罪の重さは色々です
私たちが主に犯す罪にも軽いもの、重いものがある、と思います
ヨハネ第一 5-16
罪には2種類がある、死に至らない罪と死に至る罪です
私たちが死に至らない罪を犯している人を見たなら
その人のために祈りなさい、とりなしなさいと言われています
しかし死に至る罪を犯している人にはそのようには言いません
だまされてはいけませんと書かれています
偶像礼拝をする者、不品行な者、姦淫をする者、神殿男娼
このような人たちは神の国に入る事は出来ない、この事を
あなたたちは知らなければならないのだと言っています
6-11
ここには素晴らしい福音のメッセージがあると思います
あなたがたの中のある人は以前はこのような者だったのに
悔い改めて神の前に義と認められるようになったのだと思い起させています
以前がどんなに汚れた生活であったとしても
主イエス様の流された血潮は私たちのどんな罪をも清める事が出来るのです
コリント第二 5-7
にある通りです、主イエス・キリストの御名と私たちにある神の御霊によって
あなたがたは洗われ清められ聖なる者とされ義と認められたのです
6-11はすべて受け身で書かれてあります
私たちは自分を自分で洗い清める事は出来まるのです
そしてその時に主せん
私たちのありのままの状態で主イエス様の前に出た時に
主イエス様ご自身の血潮によって私たちを洗い清めて下さるのです
そしてその時主は私たちに清い御霊をくださいました
その御霊によって私たちは日々成長させて頂く事が出来るのです
そして神の前に義とされる、神の前に何の咎めもない罪もない
無罪の者として立つ事が出来るのです
これは私たちの努力の結果ではなく一方的な主の恵みによる事です
6-12
パウロはここで繰り返しすべての事は赦されていると述べています
私たちが義とされるのは律法の行いによるのではありません
私たちがどんな大きな罪を犯したとしても正直にそれを告白して
主の前に出るなら主は私たちを洗い清めて義と認めて下さる
そういう意味ですべての事は私たちには許されていると言う事です
私はどんな事をしても主の前に悔い改めるなら主はそれを許すと言って下さいます

学び聞き取り コリント第一 九

2020-11-03 | 00:20

6-4~7
私たちキリスト者は現実の問題として色々な事件に巻き込まれます
不正な取り扱いを受ける事もあるのです
その時に同じ土台に立つキリスト者が仲裁に当たって問題を
解決する事が大事だとパウロは言っています、しかし更に問題の解決が難しくて出来ない場合
私たちは不正すらも余んで受けなければならない者です
これはこの地上の原則、常識からみると愚か事な事です
自分の権利が侵害されているのにそれを黙ってう受け入れる、
これは愚かな事に見えますが主イエス様の救いに与った者には
このような状況のの元、全く別の意味を持つのです事
このような取り扱いを通して私たちは主イエス様の十字架の
意味を更に学ぶべきであるという事を私たちは知るようになったのです
よく知られている山上の説教の中に
マタイ伝 5-38~48
自分が不正な取り扱いを受けあるいは欺かれる、これは不愉快な経験ですが
その中で十字架の学科を学びイエス様をよりよく知る事は
私たちにとっては非常に大切な事です
ペテロ第一 2-22~24
正しく裁かれる方に任せる委ねる、これはキリスト者だけに許された特権でしょう
例え不正な取り扱いを受けたとしても欺かれたとしても
神が正しく裁いて下さる、この確信が私たちには大きな財産ではないでしょうか
6-8
ここでは不正を受けた人から不正を行った人に対してパウロは語ります
これまでは不正を受けた人に対して語ってきましたが
8節では不正を行った人の事を取り上げています
互いに訴え合う事は悪い事ではありますが不正を行う事も悪です
そのような事をしている者は神の国を相続する事は出来ないと言っています
6-9,10
だまされてはいけない、とパウロが言います
ある人は大変に簡単に信仰告白をしたりしますが、周りの人たちは
彼は信仰告白をしているのだから天国へ行ける、救われていると言います
パウロはここで騙されてはいけないと厳しく言っています
列挙されている罪の程度の大きい場合、神の国は相続出来ないのです
ギリシャの神殿では偶像礼拝、姦淫、神殿娼婦、男娼が公然を行われ
それをし続けるながら罪の意識を持たないとしたら
そういう者は神の国を相続する事は出来ないのです
そして、そんなことも分からないのかとパウロは言っています