学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-25 | 00:20

ダビデは子供たちの悲惨な状況を正しく治める事が出来ませんでした
何故なら、彼らの中に自分の罪をみたからではないでしょうか
そういう意味でダビデは苦い刈り取りをしなければなりませんでした
教会の中に不品行な罪を犯している人がいるという事に関して
正しく裁くというのは難しい事です
まして、その人が教会にとって重要な立場にある人だとしたら
毎月の献金が多額であり教会がその人の献金を当てにしているとしたら
そういう人の犯している罪を裁けるでしょうか
案外、うやむやにしてもみ消してしまう事も起こり得ます
それが人間の弱さなのではないでしょうか
5-3
心はそこにありますと書いてありますが、原文では霊はそこにあるです
コリントの人は魂、肉によって振舞っていたのとは対照的に
パウロは霊の人として振舞っていたという事です
肉体はそこにいなくても霊はあなたがたと共にいると言っています
5-4,5
サタンに引き渡したという表現はとても厳しいですが
教会、又は集会の交わりから追放したという事です
私たち兄弟姉妹は一つの群れを作り交わりを保つ事は
ある種の守りの中に置かれている事を意味します
主ご自身がその群れ全体を守って下さる、私たちは交わりの中で
守られているのだと言えるのではないでしょうか
しかし、そこから引き離されてしまうと私たちはこの世の支配者である
サタンから直接攻撃にさらされるという事です
これは決して救いを失うという事ではありません
私たちがイエス様を信じ救いを頂いたならイエス様は私たちを
引き離す事はなさいません
誰もイエス様の手から私たちを奪う事あないと聖書が言っています
ヨハネ伝 10-28,29
しかし、私たちが罪を犯した時にはイエス様、父なる神様から
厳しい懲らしめを受ける必要があると聖書の御言葉です
それは私たちを滅ぼすためではなく本当の意味で私たちが悔い改めて
父なる神の愛に立ち返るためなのです


学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-24 | 00:20

私たちの教会は人を裁かない、どんな人でも受け入れる愛のある教会だと
自分たちの寛容性を誇っていた可能性もあります
そしてパウロのように厳しい事を言う人達に向かって
何故あなたたちは愛のない態度を取るのか、人を裁くのかと
イエス様だって裁いてはいけないと言っているではないかと
反論していたかも知れません
そしてこの事は現代の教会でも起こり得る問題です
教会内の罪に対して私たちはどのような態度を取るべきなのか
これはとても難しい問題でしょう
この事に関して旧約聖書から考えてみたいと思います
サムエル第二 12-10~13
ダビデと家族にも似たような罪を犯した事が書かれています
神の人ダビデとよく言われますが、このダビデと家族にも
大きな罪が入り込んでしまいました
それに対してダビデは必ずしもはっきりとした態度を取る事が出来ませんでした
私たちはこの事を見ると聖書の御言葉を実践するのは
決して簡単な事ではないのだと改めて思わされます
ダビデにアビシャロムという息子がいましたが
彼の犯した罪をダビデはきちんと裁く事が出来ませんでした
結果的に神ご自身がアビシャロムをの事を裁かざるを得なかったのです
ダビデ自身は罪を指摘された時に素直に悔い改めそれゆえにダビデの罪は赦されましたが、
同時にダビデは自分の蒔いた種を刈り取らなければなりませんでした
ダビデの妻たちを息子アビシャロムが寝取るという恐ろしい事となりました
サムエル記第二 16-21,22      18-9~15
このような事があってもダビデは息子を守ろうとします
アビシャロムは長い髪を誇っていましたがそれが命取りとなりました
ダビデが早い段階でアビシャロムを正しく裁いていたなら
イスラエルの国も分裂する事はなかったのではないでしょうか
ダビデが息子を溺愛するあまり正しい判断が出来ませんでした
最初にダビデはアビシャロムを裁く機会もあったのです
それはアビシャロムが兄アムロムを殺した出来事の時に
裁く事が出来たはずなのに中途半端な形で受け入れてしまいました
結果として彼は増長し父ダビデに反抗して
自分がイスラエルを治めようという野望を持ってしまったのです



学び聞き取り コリント第一 八

2020-10-23 | 00:20

コリント第一 5-1~13  8回目 テーマは主の愛と裁き
主の裁きは厳しいのですがその根底には本当の愛があるという事を学びます
今までの1章から4章ではコリントが抱える問題を見てきました
それは分裂の問題でした、分裂の理由は兄弟姉妹の中にある自分を誇る思い
あるいは自分の知性に大変に自信があってその奢り高ぶりからの
対立が生まれたという事でした
それは私たち人間が抱える魂の問題だと言ってよいでしょう
私たちの体は魂、霊、肉体からなっていると聖書にありますが
魂の問題がコリントの教会に分裂をもたらしていたという事です
今回5章では不品行の問題が扱われています
これははっきりと罪であるのか、そうではないのか
これは私たちの体、肉体の問題です、聖書の中では限界事例というのか
これははっきりと罪であるのかそうではないのかと
争われるような事があります、例えば、離婚に関してなどです
ある人はこれは許されないと考えるし、あるいはあるケーズでは
これは仕方がないと考える人もいます
しかし5章1節で扱う不品行の問題は議論の余地がありません
誰が見てもこれは主の前に罪である事は疑いを挟む余地がありません
この不品行があなたがたの間にあると記されています
と言うのはこの事実が広く知られているという事です
この事によってコリントの兄弟姉妹ひいてはイエス様の証が
台無しになってしまうと言う状況になっていた事が分かります
しかもそれは異邦人の中にもない位の不品行だと言われています
当時のローマの法律では母親との結婚は禁じられていました
現在の日本でもそうです
異邦人の中にもないような不品行がコリントの中にあった
従ってコリントの兄弟姉妹が抱えていた問題というのは
一般社会が抱えていた問題よりも深刻であった訳です
そのような状態にあって、どういう態度を取るべきかをパウロは述べています
5-2
コリントの兄弟はそのような兄弟がいるのを知りながら黙認していたのです
もしかしたら積極的に自分たちの寛容さだと誇っていたのかも知れません






学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-22 | 00:20

私はこう確信しています、死もみ使いも権威ある者も今ある者も
後に来る者も力ある者も高さも深さもそのほかのどんな被造物も
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離す事はできません
これがパウロの確信でした
第四のテーマは命を分け与える使徒です
コリント第一 4-14~21 を見て見ましょう
パウロはここで大胆にこの私がキリスト・イエスにあって
あなたがたを産んだと言っています
私はその意味であなたがたの父であると言っています
福音の命を分け与えたという意味であなたがたの父だと言います
3-10,11 には土台を据えたという表現を用いましたが
ここではそれを言い換えて、あなたがたの父であると言い
養育係とは異なったという言い方をしています
4-16
この言葉を言えるのは本当に自分が忠実な管理者でなければなりません
自分が主の前に忠実でなければ私に倣う者になって下さいとは言えません
私がそうしているのと同じようにあなたがたも
福音の命を他の人たちに分け与える者となって欲しいという意味です
神の奥義の忠実な管理者として歩んで下さいと言うのがパウロの言葉です
4-17
ここでもキリスト・イエスにある私たちの生き方を
あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう
4-18
神の国は言葉や人間の知識あるいは理論ではなくて力にある
これは命にあると言う意味です
神の国は私たちの命についての事なのだと語られているのだと
今、知る必要があるのではないでしょうか


学び聞き取り コリント第一 Ⅶ

2020-10-21 | 00:20

コリント第一 4-9
パウロの時代は犯罪者は大衆の娯楽のために死刑が行われ
競技場で野獣と戦うような事さえさせられました
そして、それはある意味でメイエベントとなり
彼らはまさに行列のしんがりとして最後の登場させられたのです
パウロはこの事を神が自分たちを見世物として
すべてのものの最後に登場させられたという比喩で表現したのです
そして自分たちは今み使いにも人々にも見世物となったと言っています
何も誇るものがない、ただ人々から避難され中傷され
実際に投獄され処刑されてしまう者だとパウロはこの時点で自覚しています
コリント第一 4-10~13
神に忠実に生きるという事は当時はまさにこのような
人生を歩むという事を意味していました
大変に厳しい時代であった事が分かります
パウロはローマ人への手紙8章36節の中で
あなたのために、私たちは一日中死に定められている
私たちはほふられる羊とみなされた、と書き残しています
が、その後にしかし私たちを愛して下さった方によって
これらすべてのことの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです
と、高らかに宣言しているのです
これらすべての中にあってもというのは
患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、を指しているのですが
そういう中にあっても圧倒的な勝利者となるのです